上原先生の知遇を得る

そこで翌日神田猿楽町の上原六四郎(虚洞)先生を訪うて、尺八の価値や、尺八を何年習ったならば、専門家になれるであろうかと云うことに就て、先生の意見を問うた。
先生の答えられるには、「尺八に一生を捧げるだけの価値は確かにある。併し専門家になるまででには少なくも十年余りを費やさなければならない」と云うことであった。
自分は田舎では相応に吹く積もりであったから、一、二年も学んだならば、相応な者に成れると信じて居った。
其の予定が狂って此先き十年余りもやらねばならぬとすると、前途があまりに遼遠であるので非常に失望した。そこで郷里における熱心、道に対する理想などを諄々と話をした。
すると先生は「兎に角、何か吹いて見よ」と云うことであったので『追分』を吹いた。其の時に先生の言われるには「洵に見事に吹ける、だが東京では流儀が違うからそれは全然廃して了わなければならぬ。君の熱心があれば、八年位やったならば兎に角飯が食えるようになるであろう」と云う。
前途に一縷の光明あるご意見であった。
兎に角其の日はお暇をして齋藤先生に復命した。
三日経って後又々上原先生をお訪ねして、郷里に於ける苦心などを縷述したところが、「君がそれほど道に熱して居るなら、もう五、六年も経ったならば、尺八で自活が出来るであろう」と言われた。
又年数が三年ほど減った。
それをまた齋藤先生に復命した。齋藤先生は、「それならば僕が学費金を出してやろう」と言って下さった。自分密かに思うに、見ず知らずの他人に学費金を下さると云う其のご厚意は実に有難いが衷心甚だ面白くない。
のみならず自分の意志に背く。
自分は何処までも自分自身で働いて、自分の力で学ぼうと云う決心をもって出て来たのであるのに、縁も由縁もない他人に学資金を貰うと云うことはどうしても忍び難い。他に何か方法はなかろうかと種々と考慮に沈んだ。
然るところ郷里で多年恩顧を蒙った会計課長の正木銀作氏(当時東京巣鴨に住す)から、用談があるから来いと云う手紙が来た。
早速行ったところが、「自分の本宅には婦人のみで不用心であるから、一人書生が欲しいのだが君来る気はないか。
書生といっても別に用はない。
君が尺八を学びたければ学んでも差支へない」と云うことであったので、他人に学資金を貰って、お世話になるよりは兎に角書生と云う役目で衣食をすれば、その方が自分の本意であるというところから、斎藤先生の好意を辞して巣鴨曙町なる正木氏の厄介になることになった。
然るに性来お世辞一つ言へないぶつきら棒の自分は横著と云う譯でもないが、掃除一つすることにも気が付かない。
又奥さんは非常に親切にして下さって、自分が掃除をせぬかと自ら進んで用を達さぬからとて、嘗て一度も咎められたことはなかった。 広い邸宅で離れ座敷があって、その離れが自分の居間に宛てられ、朝かから晩まで譜を書いたり、尺八を吹いたりして、家の用などは一向見向きもしなかった。
自分は離れに居ることゆえ兎角深更まで眠りに就かぬものだから、朝は何時でも起されずに起きたことは殆どない。
時によると十時頃になって、家人は残らず朝飯を済してしまった後などであるときは、甚だ間が悪かった。
此曙町から三八の日に柳橋の竹翁先生の許に通い、又一週に二回上原先生の許に通って、孜々として怠らなかった。 彼これしている間に、正木氏の女婿の宮岡氏が帰朝することになって、それやこれやの都合で自分は同家を辞することになった。
で、再び自活して勉強しようと決心した。
嘗て叔父から版下書の名人に久永喜頴と云う人があることを耳にしておったから、その人の住宅の訪ぬべくあて度もなく探しに出た。
そうして神田明神坂の或版屋に立寄って久永氏の住宅を問うたら、日本橋区本材木町と云うことが判った。
即刻同氏を訪ねて版下書の弟子たらんことを乞うた。ところが「君は版下書が終生の志望か」と云う問いであった。
自分は正直に「版版下書は志望ではなく尺八修業が志望なので、尺八を学ぶ手段として版下を書こうと思う。
と云うのは自分の叔父が版木を彫った縁故もあるので思い付いたのです」と答えた。「其の考えは自分の弟子とするには甚だ面白くないが、併し君の志望が甚だ面白い。ぢやに依って一つ君の飯を食う種を揃えてやるから暫時通ってみるがよい」と云うことであった。
そこで半月ほど弁当を持って、巣鴨から本材木町まで二里半ばかりの道を朝早く起きて通って、「株券の版下などの下書をして見ろ」とか「字配りして見ろ」とか言われて、種々下仕事をやったが、なかなか急のことに飯を食うまでには難づかしい様子であった。でそんな事で彼これ一ケ月を過した、ところが其処に自分のような食うに困る学生が三人居った。一人は医学志望、一人は法律志望、一人は尺八志望の私と三人である。
其の三人が寄り合って一つ共同的に働いて、各々其の志すところに向って勉強しようと云うことを約した。で京橋区槍屋町一番地の三等煉瓦を借り込んで、文粹社と名づけて、筆耕や文書書の代作等の職業を始めた。
年下の者は諸所に仕事を取りに行ったり、或は使い歩きなどの任に当って、一生懸命にやったが、食う事を専らにすれば勉強が出来ぬので、初めは昼間だけは稼ぎ、夜間は各自勉強をする約束であったが、迚も昼間だけの稼ぎでは生計が立たない。夜間まで仕事が及んで、夜十一時頃から書見をする者は書見をし、自分は尺八を吹き初め譜の謄写などをやるといつも十二時過ぎになる。
再三再四巡査の注意を受けたので、もう十二時後に戸を叩く者があれば「そら巡査が来たツ」と言って息を殺して取次に出る者がない。ますます激しく戸を叩く。余儀なく自分が出る。「以来十二時後に尺八を吹くなれば正式の処分をするから左様心得ろ」という厳命を受けた。それ以来十二時後には吹かぬことにした。 
又或時、翌朝の味噌を買うとて三銭の銭を火鉢の袖斗に用意して置いたところ、三人中の一人、非常な煙草好きで密かにその銭を持ち出して、その時分流行の『ピンヘット』を買い求めて素知らぬ顔をしておった。すると他の一人がそそれを見て「君は『ピンヘット』などを買う銭は持たぬ筈だ」「いやこれは外から貰ったのだ。」「どうも怪しい」といっている間に味噌を買う銭の紛失したことが分って、とうとうそれが露見して口論を始め、果ては掴み合いの喧嘩になったことなどもあって、今から追想すると頗る興味がある。又或時に「君は書が下手だから水汲み番に廻れ」と言って、口論を始めたことなどもあった。又或時は「尺八を吹かれては書見に一心になれぬ」とて抗議を申込まれて「僕が尺八を吹いて、君が読書に耽られぬような不熱心なら読書をせぬがよいぢやないか」と云うような口論もしたこともあった。
兎角勉強の末は口論に終わるので、二時三時にもなることもあった。斯様な事で数ケ月経ったが、どうしても充分に勉強が出来ない。
竹翁先生の許にも通う暇がない。
上原先生だけには二週に一回だけは欠かさず通った。ところが翌年の桜花時になって斎藤先生が観桜のために上京されたので、訪問をして、その後の一伍一什を語った。ところが先生の言われるには「それは迚も旨くくいけよう筈がない。それだから僕が学資金を出してやろうと言うたのだ。何も遠慮をすることはないから、君もそれに依って専念に勉強したがよいぢやないか」と何時に変わらぬご親切に、私も感激してとうとう最初の主義を翻へしてご厄介に預かることにした。
自分が斎藤先生のご厄介になることになったために、文粹社も解散の己むを得ざるに立ち至って人生行路難の一頁を繙いた。
そうして自分は二人に別れて、本郷元町に住んでおられた土屋良蔵氏(医学士三龍堂病院の副院長)の家に寄属することになった。
同氏も自分の志望を奇特なりとして、好意を以て遇されたのであった。
斎藤先生の主義として学生に多額の学資金を与え、余裕を生ぜしむると、必らずその間に幾分なりの怠慢が出るものであるから、たとえ一厘一毛たりとも空費を許さぬと云うので一々予算書によって給与れた。
その予算書の金高は一ケ月金五圓であって、此金を以て食料から月謝、湯銭等一切を支弁せねばならぬから、なかなか無駄使いどころの沙汰ではない。
殊に盛夏の頃、蚊軍に襲われても蚊帳の調達が出来ぬので、他から「蚊が大分酷いようだが、よく我慢しておられますね」と云う見舞を受けた受けたこともあるが自分は飽くまで負けぬ気で、とうとう一夏蚊帳なしで押し通したことがある。又同郷の知人からも、非常な同情を以て種々な便宜を与えられ、嬉し涙に暮れたこともあった。
山形でいま弁護士をして居る関根源治氏(法学士)などは殊に同情の深かった一人であった。其の当時の心理状態を腹蔵なく打ち明けて言えば、実は普通意味されて居る遠慮とは異って、世の中をすねたのである。
自分は何が為めに斯うも子供の時から、不幸に不幸が重なって逆縁のみ多いのであろうか。自分の如きは運命の神様に見放された者に違いない。
所謂表面遠慮と云う美しい言葉で遠慮はして居るが、其の実、半ば世の中をすねて世の中に背いたのである。最初斎藤先生の好意に背いたのも畢竟そう云うすねた心理状態からしてお断りしたのである。
又前に話した一夏蚊帳なしに通したのも同様である。特に言ううて置きたいのは、斎藤先生の御好意は、普通の私恩を施すと云う趣旨から来て居るのではなく、基督教の真の意義から来て居るのである。
それは先生が学資金を下さると云う話の際に言われるには、「自分は川瀬と云う個人に私恩を施すのではない、君の志の鞏固なのを見込んで其の志に寄附するのであるから、俺に金を返えすと云うような念を有ってはいかぬ。
君の志望を貫くのが即ち報恩である。
君が私恩を受けるとしたら君の心持ちが悪かろうが、君の志望を貫くのが報恩であるならば君の良心に於て何も疚しいことはなかろうぢゃないか」と云う事を、懇々諭されたのであった。
自分が最初先生の御好意を辞退したのは、多年の節操を破るような気持ちがして、どうしても其の気になれなかったが、漸次先生の神の如き純潔なる愛が了解されたものだから、後には段々馴れ親しむようになった。素より自分は聖書などは研究したこともないが、生きた聖書に接して神の博愛を漸次に感得することが出来た。
其の時分仏教の書物なども、折に触れ観て居った。尺八修行の方は無論専門にかかって居るのだから、一昼夜余念なく之に心を傾倒して居ったのは言うまででもない。
辻屋氏の老母は宵から寝に就かれるので、尺八を吹くことが出来ぬから、まだ今のお茶の水橋の出来ぬ頃で、あの通りは人の往来も少く、寂しい処であるのを幸いに、川辺りに降り下って、水に臨んで対岸の欝林に向って瞑目三昧に吹くと、其の音が欝林に反響して余音嫋々。
何んとも得知れぬ快感を覚ゆるので、度々此処で練習をやったものであった。
そこで学資金の幾分を補う為めに、二、三の人々に教授を始めた。基の人々は土屋医学士と友人の布施金次郎氏、王子町の駒崎三四郎氏、関根鹿之助氏、岩永秀三郎氏、杉谷四郎氏の人々であった。之が抑々時分が尺八教授の最初で明治二十七年であった。
明治二十八年の事であった。
同郷の先輩で予ねて厄介になっている鳥居熊彌氏(清水組支配人)から駿河台の清水本邸の新年宴会に、尺八持参で同行を勧められた。
時分はまだ修業中であって、迚も人中で吹くなどは思いも寄らぬと言って、再三辞退した。
然るに鳥居氏の心では、川瀬位熱心にやって居るのだから、真逆に失策などはなかろうと信じているので、例の川瀬一流の遠慮と早合点して、無理に同行を促がされた。とうとう断りり切れずに往くことにした。清水邸に往って、鳥居氏が自分を、一座の人に紹介して言わるるには、「此者は尺八の熱心家で、よく吹く者であるから余興として今日同行したのである」と言う吹聴に、自分は劈頭第一に面食った。
それから合奏の対手は同家の令嬢に出稽古をする琴曲の先生で年齢二十歳位かとも思われる婦人が、髪は文金の高島田に結い、裾模様の晴着と云う盛装で控えて居るので、是また予想外であった。
それに引換え自分は苦学生の身分で、著換えとては郷里から持って来た著古しの一張羅で、極く見すぼらしい扮装であるし、殊には上京して間もないことで、東京の上流の家庭などは初めて見たのであるから、何をみても眩いようで其の壮麗に驚愕した。
やがて余興の刻限が来て合奏すべく慫慂を受けた。然るに自分は一通り尺八の稽古は受けてもまだ合奏の経験はないので、習った通り吹きさえすれば合うものと心得て居った。
そこで対手方の婦人から「何をおやりになりますか」と聞かれ、「近頃『夕顔』が上って、それお此頃温習って居る」と答えた。
「それでは『夕顔』を合せてみませう」と云うことのなった。
前にも云う通り合奏の経経験がないから一圖に習った通りに吹き初めたが、諸処拍子なども違ったであろう。譜本を四、五行いったが脱線に脱線を加えては初めに返えることが二、三度にお及んだ。初めの頃は到底合奏が出来ぬところから合いの手から初めて、絃のあとになり先きになったりして、どうにかこうにか一曲を了えた。
合奏が済むと気も魂も転倒せんばかりになって、しばしば心臓の鼓動がやまなかった。
まんまと首尾よく失敗に帰したにも拘わらず家人からは篤く礼を述べられ赧顔汗背深く恐縮した。さて、余興も済んだと云うので善美を尽くした饗応を受けたが、迚も一口も咽喉に通るどころの騒ぎぢゃない。
箸もとらずに逃ぐるが如くそこそこ暇を告げて外に出た。
すると後から用人風の人が盆に包物を載せた物を持って追いかけて来て、「之は些少ながら礼である」と言って出された。自分は「礼などは受ける身分でない」と再三辞退したが、用人風の人は「之は是非お渡しなければ自分の役目が済まぬ」とて無理強いに懐中に押入れた。到底辞することが出来ぬので、不本意ながら持ち帰った。
家に帰って包物を開いて見ると五十銭あった。
之を見て自分は憤慨した。金の多寡は兎に角として、報酬を受けると云うことは、どうしても気が済まぬから、幾度も鳥居氏を介して返えそうかと思ったが、之を返えしては先方も困るだろう。自分も取って置いては気が済まぬので一週間ほどは考え通しに考えた。今から考えて見ると、矢張り世の中をすねた一種の心理状態が、左様な苦闘をせしめたのであろうと思われる。
普通ならば苦学生が正月五十銭の小遣いに有りついたのだから、大喜びで受けるのが常であるのに、すねた心は他人の親切を、恰も自分を愚弄したかの如く取ったり、自分の失敗を憤慨したり、悲観したりしたのは、当時を追想すると、実に隔世の感がある。
兎に角青年時代にはかかる境遇のために心の軌道を逸しやすいもので、今にして思えば慄然たるものがある。
なお合奏の相手をした婦人は何という名前の人であるかその当時は知らなかったが、両三年後に、その婦人は現今女流箏曲大家として推称さるる山室千代子女史であったことが判った。その後、本郷の春木座裏に二階建の家を借りて稽古を始め独身生活をやった。何分一人ぼっちの事であるから起臥自在で、空腹になれば食い、眠くなれば寝るという放縦生活であった。
ここにおいて合奏の必要を感じて、故山勢松韻先生と、故山登萬和先生の二家に合奏方をお願いした。
山勢先生は非常に謹厳な方で、琴の稽古場に男子が出入ることはあまり好ましくないから、なるべく稽古人の来ぬ前に来てくれということであった。稽古人の来ぬ前とすれば未明に往かねばならない。
寝てしまってはとても朝起きは難しいから徹夜で尺八の製作や、譜の謄写や、読書や、思索に耽ったりして夜を明かし、未明に外の井戸で顔を洗って、朝の食事は下宿屋の賄いが間に合わぬので一時凌ぎの水を飲んで、安くて強い煙草を吸い、興奮を求めて、こうして先生のもとに往く。
先生は家内中一番の早起きであるから、ご自身戸を開けられて、自分の往くのをお待ち下さったのが例であった。短時間ではあるが、いかにも親切で、後進子弟同様何呉となく懇篤周到なるご教授やらご注意に預かった。
なおその外専門家として世の中に立つ上に色々便宜をも与えられたのであった。先生のご配慮によって浜離宮にも往ったことがあり、華族会館にも往ったことがあった。
先生に接する日は至って浅かったが、後進を誘掖されるご好意は永く記憶に存して感佩しているのである。
山登萬和先生は、松韻先生よりも永い間ご厄介になった。
是また非常な好意をもってお引立てを蒙った。自分が公会の初舞台は当時不忍の弁天に隔月行われる巳待ちの公会を、池に面した座席で催された。その主だった人は、山登、櫛田、高橋の諸氏であって、自分は山登先生の勧めに依って公衆の前で、初めて演奏した諸人が経験するような、いざという場合になると、兎に角気後れがして、平素の元気も失せ、神気は亢り、不結果に終わることが多かった。その不出来なるにも拘わらず、山登先生は「公衆の前で吹奏するのは技芸上達の階段であって、大切な事業として決して忽せにすることの出来ぬものである」と言って、始終自分を誘導して下さったのであった。


竹友回顧録
幼にして孤、外祖父の家に養われる

私の郷里は山形の水野藩で、家は身分の低い士族であった。
天保の改革で有名な水野越前守忠邦公が御老中の当時、俊儁なる気才と英邁なる資質とを以て、御台場を築いたり、印旛沼堀割等の奇策を立て、当時累卵の如き邦家に尽瘁されしを小人の為めに誤まられて、実収八萬石の浜松より三萬石の山形に左遷せられたのであるから、藩士は大概内職をしたものだと聞いて居る。
斯かる疲弊した藩で学問などする餘地がない。故に藩中に私淑するに足るほどの人物は一人も出ない。私は斯様な処に明治三年閏十月十日に生れたのである。
父は川瀬賢造と云って明治二、三年の頃、協救社(豚の蕃殖を目的とする国家的事業にして日本に於ける株式会社の嚆矢)の山形支部長であったが、民情未だ肉食の利を知らざるが為めに、事志と違ひて出資者に迷惑をかけ引責の結果、妻子を捨てゝ郷里を去り東京に出で、後ち越後の新発田で代言人(現今の辨護士)をして居たが郷里に還へることも出来ず、終ひに四十二歳に歿したのである。
父が斯くの如き悲惨な一生を終はり、又私等母子が一家団欒の楽しみを享くることの出来なかったのは、畢竟するに当時は維新後未だ間もない頃であったから社会的制裁が最も峻烈であって、現今の如く出資者に対する責任が有限とか無限とか云うて、財産を標準としたものでは迚も済まなかったからである。
当時一般の気質から云へば切腹がふさはしかったかしれぬ。
現今ならばこんな悲惨な事もなく済んだであったろう。
父が国を去ったのは自分の四歳の時で、生き別れが即ち死別れとなったのである。
六歳の時、家計上の為めに慈母の膝下を離れて外祖父の家に預けられた。
ついで九歳の時、母は三十三歳の厄年に私の未来を案じ煩ひ、あの世から私を守護すると言ひ終はって病歿した。
七歳の時、小学校に入り、十二歳の時又々家計上の都合で小学校にも通ふことが出来なくなって、餘儀なく活版所の文撰小僧に雇はれ、月給一円五十銭を貰ふことになった。
幸か不幸か之が為めに四角な文字を覚え、傍ら夜間村夫子に就て漢籍を学んだ。
それと幼少の時分、祖母と添寝のお伽噺に昔の忠臣孝子の話やお釈迦様や孔子様の話、其の外、高僧の伝記や、あらゆる合戦講談の類に至るまで、書籍以外に家庭的の教育は主に祖母の寝物語りのうち享けたのである。
それから活版所に居ては到底立身の途がないので、県庁に志願して出たのが十五歳の時であった。
文書の配達から弁当の持ち運びに至るまで、終日労苦の中を閑をぬすんで文書の謄写などを手伝って文字の稽古に力めた。
十六歳の時、簿記生の募集に及第し、簿記の講習を受くることになって十七歳の時雇員を拝命した。
此時代も活版所に居る頃の様に、深更まで勉学を励んで居た。
祖母の激励にて十四、五歳の頃から儒教を崇拝するの餘り「非礼不見非礼不言」の句の如きを真正直に正面から信ずるだけで、之を咀嚼し且つ之を活用する力の伴わざるが為に、兎角孤独になり狭隘になって世に処する上に行きづまって了ふ。そう云う処からそろそろ人生と云うものを疑い初め、十六歳の頃不図老子を少しばかり読んで見て、一層思想の紛糾を醸し、教えと実世間との齟齬はますます人生と世間とに就いて疑惑を抱くに至った。
疑惑は厭世となり、厭世は悲観となり、悲観はやがて総ての思いが懶(ものう)くて動きが取れない。
そして何とも云い様がないほど苦しい。夜も昼も分別なく考え込むこともある。そこで自分はどうにかして此の苦しみを逃れたい逃れたいと思って居た。
処で叔父が書に趣味を有って居た其の感化で、自分も一時習字に熱したことがある。習字をする間だけは幾分悶々の情を慰することが出来る。
そう云う様な処から遂い知らず識らず習字に心を入れた。
つまり苦痛を忘れ逃れる為に習字をしたのであるから、多年根底を深うする悶々の苦痛は到底習字位のことで全然慰安する事の出来る筈はない。
彼これして居るうちに心機は一転して唯一の慰安者たる習字は、やがて竹道に移るの機会が来たのである。
県庁の雇時代、即ち十七歳の頃であった。
或る時門口に一人の虚無僧が来て、門附の本曲を吹いた。
私はそれを聴いて、所謂餘韻嫋々として如何にも風韻の高い音色に魅せられて、身はさながら天国に導かれたような感じがした。
それと云うのは今まで悶々の情を書で忘れて居ったのが、尺八の妙音に接して、此身の苦痛を一時に拭ひ去られたような心地がしたので、抑々之が動機となって、心機一転、自分も尺八を吹いて見たいと云う気がむらむらと起こった。
そこで余りに感じたので幾ばくかの金を出して一、二曲所望した。
其の時聴いたのが今でも記憶して居るが『御詠歌』と『詩吟』であった。
愈々堪らなくなって、即座に入門を申し込んで師弟の約を結んだ。
さて宿所は何れかと聞くと、「山形市街の西方五、六町を隔てた稲荷の杜の中に住んで居るから何時でも来なさい」と言う。私も大いに喜んで、即日夕景に其処へ訪ねて往って驚いた。
驚いたのも無理はなかろう。此辺は昔稲荷口と云ふ城の見付跡(今の停車場附近)で、辺りは樹木鬱蒼として陰翳昼尚暗く、狐や狸が棲んで居る至って淋しい処だ。
其処の雨の漏らぬような樹の下に、四本の丸木柱を建て、それを莚で囲ひ、土間には藁を敷いて其の上に莚を二枚敷いてあるのみで、夜具蒲団は勿論火鉢、水桶、食器、炊事道具と云ふやうな物は一切なく、道具と云ったら尺八一管と毎日育負って歩く長方形の箱が一つあるのみで、まるで芝居でする乞食非人の小屋其のまゝだ。
此虚無僧は淡々たること水の如しと言ったような性格の人で、礼金を余計に出しても、多いとも少ないとも言はない。
格別有難いような様子もなければ、不足らしい顔色などは露ほども見せなかった。
其の素性は詳しいことは聞かないが、師の言はれるには、「自分は仙台伊達家の家臣の家に生まれ、十四歳の時に芝居で横笛を吹いたことが親に知れて勘当を受け、それ以来虚無僧に身を窶して了ったが、本名は榊原道之助、三虚山と号す」と言われた。
年輩は見たところ五十五、六歳、風采は頭は丸禿、体躯は矮小にして肥太り、面の血色は棗の如くとでも言ったように非常に宜い。眼は一眼で而も`すがめ`だ。而して何時もにこにこ笑って居るような風貌であるが人品は一向挙らない。
さう云うような風采で、怒った顔色や不快な顔色などは一度も見たことがなかった。
其の時分、県庁で没収品の払い下げがあって、その中に一管の尺八があった。私は其の尺八が欲しさに小使ひに頼んで入札して落札した。
私は早速其の尺八を先生に示して良否を問うた。
処が先生は「此の尺八は俺の物だ」と言って笑って居られる。
「此間、或虚無僧と酒を飲んで口論の揚句尺八で撲り合いをやって二人とも拘留の上、此の尺八は凶器として没収されたものだ」と言って、たゞにやにや笑うのみで、其の喧嘩の原因とか、理非曲直は無論,苟も自己を庇護するようなことは、一言も言われなかった。
何という洒脱なことであろう。
普通俗人が他人と喧嘩をしたならば、その可否を言うて、自己弁護せぬ者は恐らく千人中一人もあるまい。此行いは大哲人か大痴人ならざれば出来ぬことで、とうてい常識では測られないことだ。
先生は笑いながらその時撲られた傷だと言うて、禿頭の真ん中に一寸ばかりの傷のあるのを示されて,かっか大笑されたのである。
それから一年半ほどの後ちに、先生は山形を距てる三里ほど南の上ノ山という処に往かれて、日々托鉢して居られた。
私は日曜の度ごとに、草鞋を穿いては,遙々師匠を慕って通った。
三虚山先生は尺八を吹きながら時々袖に手を入れて袂から紙を出して、二寸四方位に千切り、それを尺八の歌口へ指先で押し入れ、手穴の総てをふさぎ、ぷっと恰度按摩が笛を吹くように上から強い息で其の紙切れを吹き出されるのが常であった。
自分は其の何の所以なるか一向分からんで居った。
或日先生に其のわけを聞いた処が、「其うすると音が良い」とただ答えられたのみで、遂に其の訳を説明されなかった。
自分はただ禁厭か何かのやうに思って先生のやる通りに、先ず尺八を吹かんとするに先立ち、必ず二寸四方の紙で此禁厭をやったものである。
後年荒木竹翁先生に入門した時、先生が一曲吹かれると露拭きを通されるのを見て、「それは一体何の為ですか」と問うたら「尺八は一曲吹くと中に露が溜まるものゆえ、其の露を拭き取る為めだ」と説明された。
三虚山先生が二寸ばかりの紙を吹き出されたのは,即ち此露拭きの代わりであったなと初めて合点したのであった。斯くの如く三虚山先生は理屈放れのした人で、苟も理屈とか、順序とか、分解とか云うようなことは微塵も無い人であった。
三虚山先生が上ノ山に移られてからは、日曜日には必ず托鉢に出ずに、私の往くのを待っておられた。時には無断で往かぬこともあって、次の稽古日に往って言訳を言うと「あゝそうであったか」と言ったのみで、怒った様子も不満の様子もなく、恰度子供が過ちをしたのに対するような風で、気などに止める様子は露ほどもなかったのであった。
之に就いて越後の良寛和尚にもよく似た話がある。
良寛和尚は非常に子供が好きで、子供等と手毬唄をうたひながら鞠つきをしたり、盲鬼をしたりして、終日遊び楽しんで居られた。
或日大勢の子供等と例の如く盲鬼をして、和尚は鬼になって目かくしをして子供等は埓外に出て、和尚の鬼に捉へられぬやうにと ずる をした。其の内に黄昏になったものだから、子供等は空腹になったので皆それぞれ家に帰った。
和尚の鬼は目かくしのまま子供に取残されて、夜の更けるのも知らず果ては翌朝まで子供を探して居った。すると通りかヽりの者がそれを認めて、「和尚様、何をして居られますか」と問うたら、「私は今子供等と盲鬼遊びをして、子供らを捉へようとして居るが、なかなか捉へられんで困っているのぢゃ」と言って、尚手探りを始める。
通りかヽりの者も呆れて返へって「それは昨日の事でありませう。子供等はもうとうに自分の家に帰って、寝て了って、今時分は眼を覚ました頃です」「はヽさうか」と言って、果ては大笑ひとなったと云ふことです。
良寛和尚の解脱は世間の一切を顧みない。総て人間の喜怒哀楽一切が遊戯三昧になって居るのである。
三虚山先生も恐らくは其の遊戯三昧に至るまでの悟道徹底されたものではあるまいかと思はれるのである。
其の後例の如く日曜日に上ノ山に往った処が先生は見えない。
豆腐屋の亭主の言ふには、「先生は三日ほど前に出られたきり帰られない」と云ふ。其の日は其のまヽ帰って其の後二度ほど往ったが遂ひに帰られない。無断で往かぬでも怒らぬやうな人だから、自分も無断で他国に往かうが往くまいがそんな事に頓着はない。
移転荷物は前に申す如く自分の身体と、例の箱と尺八一管の外に何も無いのであるから、飄然として風に委せて先から先へ往かれ、遂ひに去って其の行く処を知らずと云ふ風になったのであらう。
私が最初先生に会ってから足掛け三年間、此間師より享けた懇篤なる教導に対して、物質上以外に何等酬ゆる処なきのみか先生に対して、まのあたり一言の謝辞をも述べ得ず、其の後杳として消息に接せず、遂ひに永き別れとなって了ったのは、返へす返へすも遺憾の極みである。
恐らくは先生は天に在って笑を含んで見て居られるであらうと思ひ、転(うた)た追懐の念に堪へぬのである。
ここに於いて私は告白をする。
自分が人生と芸術の最終の帰趨に就て疑いを起こして、その疑惑を解くために、関西地方に漂浪旅行を企てた三十三年頃までは、三虚山先生を追想するには甚だ勿体ない話ではあるが、瘋癲白痴ならずんば乞食非人であるかの如く見なし、その実情真相を知ることが出来なかったが、追ひ追ひ先哲や大徳などの伝記や逸事などを知るに及んで、自分の先生に対して誤った観察を下して居た事に気がつき出して慚愧措く能はず、近年に至って愈々其の誤解謬見を痛切に感ずると共に先生の高さと深さは、今も自分の今の心などで、窺い知ることの出来ぬ哲人であることが解った。
それ故に先生の伝をお話するに当たっても、自分の心の高さ以上には、先生の高風は今もお話は出来ぬのである。恐らく先生は斯道の祖たる普化禅師の再来ではなからうかと想像するのほか他に述べようがない。
それ故に私は自己の生涯を通じて先生の高風の奥程を観察したいと云う希望を有って居るのである。

幼にして孤、外祖父の家に養われる 終わり

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