上原先生の知遇を得る


さて、三虚山先生に離れて以来、如何にかして良師を得たいものと、他に問い合わせもし、自らも諸所を尋ねて様々苦心をした。
処が不図七日町に松浦救意という医師があって、其の人が尺八を吹くと云うことを聞き込んだので早速尋ねて往って、どうか教えて貰いたいと申し込んだ処が,其の人教えて呉れる処か吹いて聴かすことも承諾して呉れない。
其の断はり口上に「家業に障る,併し自分は毎晩必ず吹くから若し聴きたくば他所ながら聴いたら宜からう、特に君の為に吹いて聴かすことは全然お断りする」とい無情(すげ)ない答へであった。
それでは徒らに自分が学びたいと云ふ心をそそるだけで到底自分の満足を得ることは出来ない。度々往っては懇請した。最初のうちは管(たけ)を見せる事も否んでいたが、私の熱心に動かされて、尺八だけは見せて呉れた。さうして尺八の来歴と尺八に対する昔話をした。
それがなかなか面白い。それをかい摘んで言うと、松浦医師が若い頃、江戸に出て修行中吉原に遊んだことがある。処が花魁の部屋に一管の尺八があった。自分も尺八を嗜む処から手に取って吹き試みた。
処が発音もよし律もよい。
其の尺八が欲しくなって、「どうかして之を自分に譲って呉れぬか」と懇願した処が、其の花魁も言ふのには「折角の御望みではあるが之だけは堪忍して下さい、と云ふのは、之は或る殿様から貰ったもので、その時に此の尺八だけは予の身代わりと心得て、お前の傍に置いて必ず必ず人手に渡して呉れるなと云うお頼みであった。
それゆえ良否に拘わらず此品だけはお譲り申すことは出来ませぬ」と云ふ話であった。
然るところ郷里で多年恩顧を蒙った会計課長の正木銀作氏(当時東京巣鴨に住す)から、用談があるから来いと云う手紙が来た。
早速行ったところが、「自分の本宅には婦人のみで不用心であるから、一人書生が欲しいのだが君来る気はないか。
書生といっても別に用はない。君が尺八を学びたければ学んでも差支へない」と云うことであったので、他人に学資金を貰って、お世話になるよりは兎に角書生と云う役目で衣食をすれば、その方が自分の本意であるというところから、斎藤先生の好意を辞して巣鴨曙町なる正木氏の厄介になることになった。
然るに性来お世辞一つ言へないぶつきら棒の自分は横著と云う譯でもないが、掃除一つすることにも気が付かない。又奥さんは非常に親切にして下さって、自分が掃除をせぬかと自ら進んで用を達さぬからとて、嘗て一度も咎められたことはなかった。
広い邸宅で離れ座敷があって、その離れが自分の居間に宛てられ、朝かから晩まで譜を書いたり、尺八を吹いたりして、家の用などは一向見向きもしなかった。
自分は離れに居ることゆえ兎角深更まで眠りに就かぬものだから、朝は何時でも起されずに起きたことは殆どない。時によると十時頃になって、家人は残らず朝飯を済してしまった後などであるときは、甚だ間が悪かった。此曙町から三八の日に柳橋の竹翁先生の許に通い、又一週に二回上原先生の許に通って、孜々として怠らなかった。
彼これしている間に、正木氏の女婿の宮岡氏が帰朝することになって、それやこれやの都合で自分は同家を辞することになった。
で、再び自活して勉強しようと決心した。嘗て叔父から版下書の名人に久永喜頴と云う人があることを耳にしておったから、その人の住宅の訪ぬべくあて度もなく探しに出た。そうして神田明神坂の或版屋に立寄って久永氏の住宅を問うたら、日本橋区本材木町と云うことが判った。即刻同氏を訪ねて版下書の弟子たらんことを乞うた。ところが「君は版下書が終生の志望か」と云う問いであった。
自分は正直に「版版下書は志望ではなく尺八修業が志望なので、尺八を学ぶ手段として版下を書こうと思う。と云うのは自分の叔父が版木を彫った縁故もあるので思い付いたのです」と答えた。「其の考えは自分の弟子とするには甚だ面白くないが、併し君の志望が甚だ面白い。ぢやに依って一つ君の飯を食う種を揃えてやるから暫時通ってみるがよい」と云うことであった。
そこで半月ほど弁当を持って、巣鴨から本材木町まで二里半ばかりの道を朝早く起きて通って、「株券の版下などの下書をして見ろ」とか「字配りして見ろ」とか言われて、種々下仕事をやったが、なかなか急のことに飯を食うまでには難づかしい様子であった。でそんな事で彼これ一ケ月を過した、ところが其処に自分のような食うに困る学生が三人居った。一人は医学志望、一人は法律志望、一人は尺八志望の私と三人である。其の三人が寄り合って一つ共同的に働いて、各々其の志すところに向って勉強しようと云うことを約した。で京橋区槍屋町一番地の三等煉瓦を借り込んで、文粹社と名づけて、筆耕や文書書の代作等の職業を始めた。
年下の者は諸所に仕事を取りに行ったり、或は使い歩きなどの任に当って、一生懸命にやったが、食う事を専らにすれば勉強が出来ぬので、初めは昼間だけは稼ぎ、夜間は各自勉強をする約束であったが、迚も昼間だけの稼ぎでは生計が立たない。夜間まで仕事が及んで、夜十一時頃から書見をする者は書見をし、自分は尺八を吹き初め譜の謄写などをやるといつも十二時過ぎになる。
再三再四巡査の注意を受けたので、もう十二時後に戸を叩く者があれば「そら巡査が来たツ」と言って息を殺して取次に出る者がない。ますます激しく戸を叩く。余儀なく自分が出る。「以来十二時後に尺八を吹くなれば正式の処分をするから左様心得ろ」という厳命を受けた。それ以来十二時後には吹かぬことにした。
又或時、翌朝の味噌を買うとて三銭の銭を火鉢の袖斗に用意して置いたところ、三人中の一人、非常な煙草好きで密かにその銭を持ち出して、その時分流行の『ピンヘット』を買い求めて素知らぬ顔をしておった。すると他の一人がそそれを見て「君は『ピンヘット』などを買う銭は持たぬ筈だ」「いやこれは外から貰ったのだ。」「どうも怪しい」といっている間に味噌を買う銭の紛失したことが分って、とうとうそれが露見して口論を始め、果ては掴み合いの喧嘩になったことなどもあって、今から追想すると頗る興味がある。又或時に「君は書が下手だから水汲み番に廻れ」と言って、口論を始めたことなどもあった。
又或時は「尺八を吹かれては書見に一心になれぬ」とて抗議を申込まれて「僕が尺八を吹いて、君が読書に耽られぬような不熱心なら読書をせぬがよいぢやないか」と云うような口論もしたこともあった。
兎角勉強の末は口論に終わるので、二時三時にもなることもあった。斯様な事で数ケ月経ったが、どうしても充分に勉強が出来ない。
竹翁先生の許にも通う暇がない。
上原先生だけには二週に一回だけは欠かさず通った。ところが翌年の桜花時になって斎藤先生が観桜のために上京されたので、訪問をして、その後の一伍一什を語った。ところが先生の言われるには「それは迚も旨くくいけよう筈がない。
それだから僕が学資金を出してやろうと言うたのだ。
何も遠慮をすることはないから、君もそれに依って専念に勉強したがよいぢやないか」と何時に変わらぬご親切に、私も感激してとうとう最初の主義を翻へしてご厄介に預かることにした。
自分が斎藤先生のご厄介になることになったために、文粹社も解散の己むを得ざるに立ち至って人生行路難の一頁を繙いた。
そうして自分は二人に別れて、本郷元町に住んでおられた土屋良蔵氏(医学士三龍堂病院の副院長)の家に寄属することになった。同氏も自分の志望を奇特なりとして、好意を以て遇されたのであった。斎藤先生の主義として学生に多額の学資金を与え、余裕を生ぜしむると、必らずその間に幾分なりの怠慢が出るものであるから、たとえ一厘一毛たりとも空費を許さぬと云うので一々予算書によって給与れた。その予算書の金高は一ケ月金五圓であって、此金を以て食料から月謝、湯銭等一切を支弁せねばならぬから、なかなか無駄使いどころの沙汰ではない。殊に盛夏の頃、蚊軍に襲われても蚊帳の調達が出来ぬので、他から「蚊が大分酷いようだが、よく我慢しておられますね」と云う見舞を受けた受けたこともあるが自分は飽くまで負けぬ気で、とうとう一夏蚊帳なしで押し通したことがある。
それから吉原から持ちさって来たと言う尺八を、手にとって息を入れることを許してくれたので,吹いてみるとなかなか自分の持っている尺八とは違って非常な名管である。
寸法は多分一尺六寸位と記憶するが.手摺れていて古色を帯び、手脂が浸みて飴色になってまるで竹でない。
一見黒檀のような風に見えた。
松浦医師とはその後懇意にはなったが、尺八を聞かせることと、教えることはどうしても貢んじない。
せつに懇請したところ、それほど熱心ならば別に紹介してやろうと言うことで、郷里の虚無僧寺の臥龍軒の貫主であった人が今は穀屋をやつている。
その人は金山金衛門と言う人だが、この人に相談してみたら或いは教えるかも知れぬと言うので、早速その穀屋を訪問して稽古をしたいと言うことを申し入れた。
これも矢張り尺八は手にしないと言うことを神に誓って、この職業に従事しているのだから、どうあっても教えることは承諾しない。
その時分東京の新聞に.折々荒木古童、原如童と言う名前が見えているので、それらの記事は一々切り取って保存して置いた。
と言うことは自分は如何して東京に出て、尺八の修行がしたいと、念が常時も止まなかったから、そのような記事は見逃さず必ず観ていた。
19歳のころ、県の会計課長の正木銀作氏が上京されるに就いて、自分も一行の中に加えられたので、雀躍りして喜んで随伴した。
上京の途次、松島見物に寄って、或旅館に着いた。
その時の同行者は掛長の横田氏と、正木氏の二令嬢であった。
同夜は月皎々として冲天にかかり、海波穏やかに四方の景色得も言われぬ風情に、私はそぞろに感興を催し、尺八を吹きたくて堪らぬところから、そっと階下に行って番頭に、「尺八はないか」と尋ねたところが,幸いにして貸してくれた。
そこで密かに三階の窓から抜け出して,屋根の上で、月明に向って、心ゆくまで尺八を吹いた。やがて座敷に戻って、素知らぬ顔をしていると「今、何処かで盛んに尺八の音がしたが、君は尺八を吹くと言うことを仄かに聞いているが、君はあれを聞いたか」と言われて、さては露見したかと思って,,顔を赧らめたことがあった。
東京に着いてからも、諸所を見物中、見る物聞くごとに吃驚し、度胆を抜かれてうろうろした滑稽な事などもあった。
帰郷してからも再び東京に出て,身を立てようと言う青雲の志を一日もやめた事がない。それが為に、その当時は仕事も手に付かぬ位であった。
その後、21歳の時に、預ねて欽慕している荒木古童(竹翁)先生に就いて尺八の奥の手の《六段》の最終までを習おうと言う希望を果たそうと思った。
亡父の墓が越後の新発田に在るので,展墓と言う名目をつけて県庁から暑中休暇を貰い、常々心がけて,薄給の中から月々僅かばかりの貯金をしたのを,旅費として上京することになった。
未明に起きて草鞋を穿いて,門口を出たときに,東の方に脚を向けた。
すると祖母が門口へ送り出て「越後の新発田に行くには.西の方から行かれば道が違うじやないか」と言われた。
それを言いぬけして「友人の元に寄る用事を忘れていたからちよっと立ち寄るのです」と一時逃れの嘘をついたのは勿体ない話さ。
そうして東京に出て,小石川伝通院前の安下宿の友人の処に同宿した。
当時竹翁先生は柳橋に住んでおおられたので,そこっへお訪ねして入門を乞うた。
ところが先生の言われるには「先ず一曲を吹いてみよ,何か会心の曲があるだろうからそれを吹いて見よ」と言うことであった。
そこで私は『春雨』を吹いたところが、先生の言われるには「洵に結構だが、しかしその吹き振りは乞食吹きと言って、他人の軒下に佇って吹く乞食の吹き振りだ」と一喝を食わされた。
はその意を解し得なかった。
ところで先生は「自分の『春雨』を聴かせてやろう」と言われて素吹きで『春雨』を吹かれた。
琴古流の吹き方は、端唄などは勿論吹かないし、吹いたところで、唄の節などを吹くのではなく、絃の手を吹くので今、先生もその絃の手を吹かれたのであるから、私には一向面白いと感じなかったばかりか、却って私よりもまづい。
先生の管では春雨が物を言わぬと思った。
そこで先生に向かって「六段と言う曲があるそうですが,六段は私の郷里では二段まで、越後では三段まで、仙台では四段までゞ、その先の二段は東京でなければないと言う事を、預ねて師匠より聞いていましたので、その奥の手のご教授を願いたい為めに上京したのです。」と述べて六段のの稽古を頼んだ。
先生は笑って「いや,六段なんか手ほどきに教える曲で、まだまだ奥に難しいものが沢山ある」「それは京唄と言うもので一つ『末の契り』と言う曲を聴かせてやろう。
これは極めて手軽いものだけれども」と言い添えられて『末の契り』を吹かれた。
この話を聞いた私は、意外に感じたところへ、一曲を奏せられたのを聴くに及んで、実に一驚を喫した。
面白い面白くないと言う境はもう通り越して、その幽雅宏遠なる冲も、人間業とは思われぬような感じがした。
ここに於いて今までの私の尺八観と言うものは根底から全然覆されてしまって、自分は尺八を以って終生の業としようと言う決心の臍を固めるに至ったのであった。
東京に二週間余り足を止めて、竹翁先生から『六段』と『本曲調』の二曲を授かって嬉し悦んで帰郷した。
卿に帰っても東京に出て尺八を習ったことはおくびにも出さなかった。
ただ家人だけには内々その話をし、密かに時の到るをのを待った。
然るに徴兵の関係で、すぐに上京することが出来ぬので、病身の姉を理由に徴兵猶予を乞うていた。
23歳の時に、姉が病死したので徴兵の関係も免れ、姉に対する扶扶養の義務も済んで、全く責任のない身軽の体となった。
この機を逸したなら他日後悔するも及ばぬと決心し、密かに祖父母にその旨を告げ、上京の相談をした。
ところが、祖父母はどうしても承諾してくれない。
この上は自ら処決するの他なしと独断で県庁に辞表を出し,七,八貫目の荷物を背負うて,山形から仙台に出る関山峠を超えたのが,明治26年3月20日の事であった。
仙台から汽車で上野に着いた。
上野には岩瀬と言う友人が迎えに来てくれて,飯田河岸の金原館と言う下宿屋に岩瀬と同居することとなった。
それから一週間ほど経つと,最早旅費は欠乏しかけた。
そこで志を得るには,奉公して食うだけの事をして,竹翁先生の許に通うことを決心したものの差当たり自活の道がない。
其の内前に云った以前県庁にいた際の係長横田氏から手紙が来て、自分の家に貸家が一軒空いたから其処の留守番に来て呉れぬかと云うことであった。
渡りに舟と喜んで、早速右の下宿を引き払って、横田氏の食客となった。
自分が終生忘るることの出来ぬ大恩人の齋藤壽雄先生の知遇を得たのは其の時であった。
齋藤先生(元代議士)は上州富岡在高瀬村の医師で横田氏の親戚に当たるので、上京の際は同氏方に寄寓されるのが例であった。
一日齋藤先生が私にむかって「一体君は何が志望で出て来たか」と尋ねられた。
其の時自分は本当の事を言って、尺八を勉強したい為に出て来たと言っては他人の思惑も如何であろうかと思って「自分は銀行か会社に勤めて見たいので、官吏にはなりたくないのです」と曖昧な返事をした。
「そうか、それでは僕が世話をしてやろう」と言われて、諸所銀行や会社などを奔走して下さったが、どうもおもわしい口がない。
処が或夜其の嘘が露見して了った。
それは毎夜貸家の留守番に往くときには、必ず尺八を懐中に忍ばせて空き家で練習をやったものだ。
或夜も例の如く尺八を吹いて居ったところが、女中が牡丹餅が出来たとて持って来て呉れた。
此処で図らずも尺八を吹いているのを聞かれた。
すると翌朝横田氏方に帰ったところが、齋藤先生の様子が何時もとは変わって苦り切って居られる。
不思議に思っていると、やがて僕を呼んで言われるには「君は志を立てて郷里を出て来たのであるから定めし日夜勉強して居ることだろうと自分は信じて居ったが、打って変わって尺八などを吹いて遊楽に耽っていると云うのはどうも其の意を得ぬ、一体どういう了見か」と詰問された。
ここに於いて自分はさては露見したかと一時は当惑した。
と云うのは先生は熱心なる基督教信者で、新島(襄)先生に私淑された思想の人であるから、多くの書生を薫陶するにも基督教的禁欲主義であったように思う。
当時齋藤先生は郷里と東京とで、男女合わせて十数人ばかりも世話して居られ、平生酒、煙草は勿論、寄席、演劇なども、自身は勿論学生にも極端に厳禁されて居ったので、斯様な人に対して自分は尺八を学ぶなどと本音を吹いたならば、到底お世話に預かることは萬々出来まいと思った。
然しこうなればいっそそ実情を打ち明けた方が宜しかろうと思って、実は斯くかくの志望であります」と一伍一什の話をし、且つ「此計画は決して浅薄の考えで思い立ったのではなく、既に数年前から日夜夢にも忘れぬ志望であるので、単に面白半分にやるのとは全く違うのです」と言うて弁疏した。
然るところ先生は、「そうか、それは面白い志望だ、学問をする学生は東都に幾万と数えるほどもあるが、尺八を学んで終生を之に捧げようと云う書生は恐らく広い東京に君を措いて他に一人もなかろう、然し尺八と云うものが、果たして渡世として職業になるか否やは疑問であるが此点はどうか」と詰問された。
そこで「自分は尺八が渡世の業となるならんは敢えて問う所ではありません。道の神聖を信じて自己の精神的自由を何人にも犯されなければ渡世の如何は敢えて問いません。私はその道を立派な道とし尚世間の誤解とくを以て自分の終生を捧げたい決心です」
と云うと「それまでの決心があるならばそれは大賛成だ」と云うことであった。
之を聞いて私は以外に思った。
此以外は自分ばかりでなく、横田氏も家人一同も共に以外とするところであった。
そこで私はまだ尺八の道が人人間一人の運命を賭するに足るだけの価値あるものかどうかと云うことが疑わしい。
此事は有識の士に就て念のため確かめたいと思うと先生に語ったところが「それは尤ものことである」と同意されて、「それでは自分の知合いに文部省の視学官をしている篠田利英と云う人があるから、早速此人を君に紹介しよう」と言われて、一緒に人力車に乗って、文部省に篠田氏を訪うて委細を語ったところが、篠田氏は「それは音楽学校長の村岡範為馳氏に就て聞くも宜かろうが、現に音楽学校の教授に上原六四郎と云う人がいる。此人は西洋音楽にも明るいし、尺八もよく吹かれると云うことだから、村岡氏の意見を聴く前に、先ず上原氏に就て意見を問うたが宜かろう」と言うて、二通の紹介状を貰った。
之が上原先生の知遇を得るの動機となったのである。

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