琴古流の起源と點譜の普及


茲に琴古流の起源より點譜の事について、一言話して置きたいことがある。
琴古流の祖はその俗称を黒澤幸八、号を琴古といい、今より百五十年ほど前の人である。(初代黒澤琴古、尺八の名手、明和八年四月二十三日没、四ッ谷祥山寺に葬る祖眼院禅叟琴古居士と謚)此の人は一月寺の指南役を勤め、尺八に堪能であった。
その当時の尺八は裏孔が一律低く、チ音が一律高い管を用いたもので、今日の吹き方とは全く異なったものと想像される。
特にその当時は本曲一点張りで、外曲などは吹かなかった。今日琴古流と称しているのはただその系統であるから名付けられて居るので、今日琴古流の管を地下の琴古に示したら、恐らくはこの尺八は何流かと言って首を傾けるであろう。
その位相違があるのである。外曲はよほど以前から吹いた様だが外曲をひろく巧みに吹かれるように完成したのは竹翁先生の力である。
しかるに吹く技術は進歩しても譜として缺くべからざる拍子が不完全であるために、各々自分勝手に心覚えの記号などを付けて吹いて居ったがそれは科学的でない。それではいかぬとして考案されたのが、今日琴古流として殆ど一般に行わるる上原虚洞先生の創意により成った譜點法である。
上原先生は明治一七年の頃より使用して居られたが、先生はそれを人に伝えられなかった。と言うのは先生は東京音楽学校や美術学校や高等師範の教授を奉職せられて居て、尺八の専門家で無いから他人に稽古をせられず、又一つには附点法に対する著作権の関係も有ってやたらの者には伝授せられないのであった。
ところが先生は自分の熱心を愛でて親しく伝授せられた。
最初は君限りの研究資料として他に伝えることは見合わせてくれというおお断りであった。しかるにこれを使用するに従って一日も早くこれが公開をされることは、斯道の発展上非常な必要であると信じて、たびたび先生に対してこれを他に伝えることの承諾を求めた。先生も再三の懇請黙し難く遂には何人にも公開して差し支えないという承諾を得た。
その時が丁度春木町居住時代であった。それより公然何人にも許すことになり、それが普及して遂に今日琴古流と云えば必ず譜點法を用いぬ者はないことになったのである。
凡そ何事によらず新規の事を拡めんとするには、なかなか反対者もあり一般には異説とせられて拡め難いものである。殊に楽譜の如きは、習慣が最も力あるものであるから容易に拡まらなかった。
従来の覚書様の譜を多少なりやったものは、却って點譜が五月蝿などと言い、容易に點譜に取り付き得なかったものであった。
今日の如く一般に行われた暁は、習う者自身が點譜を最上のものとして、その間に少しも疑念を挿まぬから進歩も非常に早いが、その当時の如きは、善いか悪いかすら疑問になって居たから、習う者の進歩が非常に遅かった。それは譜その物に疑いをもってこれに向かうからである。
従って點譜がが最上のものであるということが世間一般に認められた、今日とは進歩に雲泥の差があったものである。
自分の如きも生来鈍かったせいか、完全に拍子を打ちえて、これを会得し得たのは三年目のことである。今日では左様に永くかかって了解する人は甚だ稀であると思う。尚、当時先生のまだ調べられなかった曲も大分あって、山田唄の内拍子を調べぬものや未稿の曲や生田物で東京に輸入されざる曲は自分が調べ足した。
殊に山田唄の譜點調はなかなか面倒で、一時は到底匙を投げる外ないと思ったこともあったが、三,四曲稍々完全に作譜してから漸く唄物に譜點を施す一種の方式を見いだして、それから著々全部に向かって完成することが出来た。
又後年関西山陽四国九州地方に約三ヶ年間ほど武者修業的に漫遊した時に、その頃まだ東京に輸入されざる生田の物を作譜して譜點を附したのもある。
今日に至っては、譜点は大概の人にも調べ得るまでに発達したのは、竹道の一革新で、斯道の為悦ぶ事実である。
其の時分、稽古人も少々出来、黒川誠一郎、鳥谷部春汀、三浦純一(琴童)氏等も稽古に通われたのであった。
何分自分は独身者で、外出する時は近所に頼んで出る始末だから、同居人が欲しいと思うて居るところに、同郷の渡辺黙禅(小説家)君が夫婦連れで二階に同居することなった。
黙禅君と同居中には、随分珍談奇行も少くなかった。
それから明治29年本郷花町に転居した。此時も矢張り斉藤先生の御心配で「川瀬は借家を訪ねて一切の手続きをするなどと云うことは迚も出来る人間じゃないから」と云うて、先生自ら指揮の下に、家具一切の事から炊事場の事まで取計って下さった。
今考へて見るとよほど世間的の知識にうとい非常識の者であった。尚炊事をする婦人なども先生の方から遣わされて、家庭らしいものが出来上った。
放浪生活の時代と異って、女中同様の人も来たことゝて、一層心をこめて勉強することが出発るやうになづた。
それに追々弟子も殖えて、朝から晩まで吹きづめに吹いたものであった。此時分、不思議なことには、窓際の貸家二、三軒が始終空家になるかと思へば新規の移転があって其の都度蕎麦を配って来る。
よく入れ代わり立ち代わりするわいと思って居った。
其の原因に就ては一向気が附かぬで居ったら或時家主か来て「貴下の尺八の音が喧ましいので空家が出来て困る。商売の事だから昼の間吹くのは故障は言へないが、夜分遅くなって吹かぬやうにするとか、多少手加減をする訳にいかぬか」と云ふ注意を受けた。そこで初めて蕎麦の頻繁に来るる理由が判つた。
叉隣りの長家に住む某氏は動かなかった。
と云ふものは、子供が非常に大勢だから、子供の喧ましいのと、こちらの尺八の喧ましいのと差引き零であるから、隣りの家だけは引越さぬと云ふ事情が判ったのであった。
確か二十九年の秋と記憶する。他家に縁付いてゐる姉が産後の肥立ちが悪く遂に危篤の電報が来た。月末の事とて支沸ひをする用意の金があったので、それを旅費として取る物も取げ敢へず上野を出発して郷里に向った。
姉は山形県赤湯町の町長の許に縁付いてゐるので、福島と仙台の中間の白石駅に下車して、小坂峠を越え、山道十何里を息をもつかずかけつけた。
姉はもう人事不省で時々眼を開いて順輔々々と呼びながらも自分が往ったのを意識しない。二日間看護に尽くしたが、天命如何ともし難く、時々刻々に、時計のゼンマイの緩むが如く終焉を告げた。
まだ自分の素志の麓にも到達せず感軻不遇の間に、天にも地にも換え難い一人の柿、殊に幼少より千辛萬苦を共々にした唯一の同情者に亡くなられたのであるから、その悲嘆、失望は迚も言語に尽くせぬものがあつた。
郷里山形に帰る面目はないが、序ながら老祖母に久濶を叙すべく恥を忍んで帰省した。然るに郷里では、自分の思ったより自分を値打ちのある如く見做し皆々から歓迎を受けたのは以外とする所であった。
自分は志望の幾分を達するまでは、故郷には決して決して帰るまいと決心して居ったのであるから、この歓迎に対しては衷心忸怩たるものがあった。
それにも拘はらず土地の有志等は、自分の帰省を機とし、歓迎会風の音楽会などを催して呉れたり歓待を受けたりした。叉国に居った頃、尺八を一曲聴かして呉れ教へて呉れと頼んでも肯じなかつた。松浦医師にも会った。
以前とは打つて変わって非常な尊敬の態度で、尺八に志した篤士などを褒めちぎられ、却つて反封に尺八に就ての意見を聴かれるやうな始末であった。尚以前県庁に奉職して居った因みで、まだ県庁にも知人や友人が勤務して居るので、時の知事木下周一氏に吹聴したものと見えて、一夕、木下知事の宴会に自分の尺八を聴くべく招聘を受けた。此木下知事は明治初年仏蘭西などに洋行され、音楽の趣味などもあられた人である。そこで紹介者の某氏等と知事の官舎に赴いて二、三曲琴と合奏した。
初めて故郷に帰っての吹奏の事であるから、非常な感奮を以て吹奏した篤めか、先づ自分には相当な出来と思った。木下知事も大層悦ばれた様子であって、賞賛の辞などもあった。先づそれまでは無難であったが、それから一騒動が持ち上った。

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