斎藤壽雄先生の風格


斎藤先生の知遇を得て以来追々先生の眞意も了解し余ほど親しみ心が出来た。基督教禁欲主義の厳格な先生の事とて、自分自身は勿論子女書生等に至るまで酒、煙草は言うに及ばず其の他一切娯楽風の事を厳禁されたことは前にも述べた通りであるが、自分は酒は一滴も飲まぬが煙草は身にも命にも換へ難いほど好物だが、先生の前に座はると何んだか気が咎めて、二時間でも三時間でも煙草を出し得なかった。先生の世話になってゐる学生中に旧藩士の子息某氏も非常な煙草好きで、先生の前では吸はれないが、蔭で刻み煙草を吸ひ、隠れては一緒に煙草を飲んだものだ。或時それが発見して、とうとう某氏の刻み煙草一袋をむざむざ竈の中へ投げ入れ、焼き捨てられたことがあった。
僕の僕の煙草に対しては別にお咎めは受けぬが三服吸ふところは一服位に遠慮をして吸って居るが、先生の前では到底快く煙草を吸うことは恐らくなからうと思ふ。
前にも言ふ如く先生から学資金を下さるのは君に貸すのではない、君の志望に寄興するのだと云ふお言葉は、自分に取っては千斤の重みある責任を負はされたやうな気持がして、どうしても斯道の為めに奮闘して此道程を了へんければ先生に封して申し訳がないと云ふ心は、今日とても攣らぬのやある。
若し先生が普通の如き学費を貸す、私恩を施すと云ふ主義であったならば、学費を返へしさへすれば義務が済む。是非此業を遂げねばならぬと云ふ重い責任はないことになるかも知れぬ。
のみならず或は中途にして挫折して居ったかも知れない。時に或は事業の上に困難に遭遇して、随分隋気を生ずることもあったが「君の志に寄興する」と云う此の言は、自分の命とも掛け合ふほどの重み強味があるので、如何なる逆境に陥り如何なる悲運に際会しても、此一言を思ひ起すときは翻然心を取り直して、獅子奮迅の勢ひを以て勇往邁進するの一途あるのみである。
自分の浅い観察で先生の人格や性行を呶々するのは或は先生を損ずるの虞れがあるかも知れないが、其の一端として話して置きたいのは、先生の家に一匹の馬が飼育されてある。此馬は明治三年の産で自分と同年である。先生は県下に流行病などのある際には、此馬に跨って、五日でも十日でも、馬上で眠るまで昼夜奮闘して、其の予防救済に尽くされたものだ。斯くの如く功労ある馬なるが故に、もう業に已に廃馬になって何んの労役にも與からずたゞ裏の厩に秣を食ひつゝ天寿の終わるのを待って居るのであるが、先生はこの馬を捨つるに忍びず、たゞ無駄に飼って居られる。
先生の慈悲心の一班は犬馬にも及んで居る。況んや人間に封しての慈悲心の深甚なることは、自分等が讃美するだけ却って先生を損ふかも知れないのである。
自分も此の老疲馬に跨って、近郊などを散策したこともあるので馴染みでもあり、且つ午年でもあり、同年でもあ少、先生に養はれたのも同じであるから、此馬と自分は、先生に封して言ふときは、まあ兄弟の如きものである。
先生の郷里上州富岡在高瀬村には縷々お訪ねをした。何時も子が親の膝下に赴くやうな心持で年に一、二回位はお訪ねしたものであった。
奥の都度萬斛の慈悲と感化とを享けて居った。
時は三十六年と記憶するが、二百十日の暴れ日にお訪ねして自分の冒険より災厄に罹らんとした事があった。先生の邸宅は富岡製糸所の後方河を隔てて向ふ岸に在るので、汽車の都合で日の暮々に河べりまで走り着いた。処が二百十日の暴風雨で河水氾濫、橋梁流失して渡ることが出来ない。
昼飯も食わぬので空腹ではあり、疲労はして居るし、橋を渡って安全に封岸に渡らんとするには二里も川下に往って四里ばかり迂回せねばならない。先生のお住居は対岸の堤の上に呼べば応えんばかりの処に見えて居るが、河の中流とも覚しき処は激流奔騰見るも物凄い状態である。
如何せんかとしばし躊躇したが、何分急用を控へて居ることではあるし、空腹と疲労を厭うてゐる場合にはあ遂ひに危険を冒して渡るべく決心した。そこで尺八と譜本の包みと衣類履物を一括して頭部にしっかと結び付けてまる裸になり、ステッキ一本を頼りに河の中に脚をいれたが、平常橋のかゝつて居るときは、水心は清水であるからよく見えて居るが、出水後だから河の瀬に狂ひを生じて深浅の度も計り難い。
一歩一歩と踏み入るゝに従って水勢はいよいよ強く、加ふるに石は滑って其の難渋一方ならず、初め水は脚の半ばを没し腰に及び、臍、胸にまで至った。急流の事とて、ステッキ1つ突き誤ればたちまち押し流されるばかりである。そこでステッキを折れんばかりに川底に突き刺しては、それを力に、脚を浮かすことも出来ぬから、脚の指で川底を強くこすっては指の力で進みつつ川のなかほどまでに至った。
此処で一つ踏み誤れば二町ほど川下には富岡製糸所懸崖下に渦巻きをしている深淵に陥ち込んだら最後、迚も助かる訳に行かぬ。今更戻るにも戻られず進むにも進まれず、助けを呼ばんにも人通りは皆無である。
斉藤先生の邸宅を眼前に見ながら、進退これ谷つて此処で死なねばならぬことになるかと思えば、自分のあまりに軽率であったのを悔ゆるの外はないが今更追いつかない。彼これするうち、日も追々傾き、辺りも暗くなって来た。
斯くては果てじと渾身の勇を奮って、激流と闘ひつつステッキを力に尚も指行を続けた。すると片脚が大きな石に突き当たったので、これ幸ひと其の石にステッキを咬まして脚を挙げて歩を進めた。
ところが俄然深みに陥っって、二、三間押し流されたが、多少泳ぎの心得もあるところから、押し流されつつ前進した。ステッキも離さなかった。すると僥倖不図水流も弱い、浅い処にでた。
やれ嬉やと安心して尚数歩したところが、今度は水勢は強くないが深い水溜まりに陥った。それを泳ぎ越して、辛うじて対岸に着くことが出来た。ホット息を吐いて、岸に這い上がり茫然自失稍々暫くの間であった。
ー 続編ー

やがて我に返へて、頭上の荷物をおろして、衣類の濡れた部分を絞って、疲れた体と緩んだ心とを取り直し、漸くのことで先生の家に辿り著いたのであった。
斯くして斎藤先生にお目にかゝって、川を渡って来た話をしたところが、先生は私の大胆に驚かれたが、先づまづ、無事で宜かったと言はれた。食事などを済ませて休息をしてゐると、だんだん気の落ち着くに従って足の裏に痛みを覚える。
手を触れて見ると、無数の砂利が挟まって居る。医家であるから書生さんに依頼してピンセットで足の裏に刺さつた砂石を抜いて治療をしてもらった。
用談を了へて、翌々日帰るときも、水は減水したがまだ橋はかゝらない。川下を二里迂回するのは面倒だから、例の兄弟分の馬の脚を借りて渡渉すべく企てた。馬の背で渡るだけは渡れても、馬を返へすときに困から馬の口に長い紬引を幾本も繋いで、向こう岸に渡ったら馬の口に結んである細引を向う岸から曳いて貰って、さうして馬を元に引返へさせると云ふ計画を建てた。で、馬の背に踏つて難なく越した。漸くて馬首を向け直して、「御苦労であった、左様ならお戻りなさい」と云ふ調子で馬を返へさうとした。向う岸では書生さんが細引を引張つ頻りに馬を引寄せようとしても、馬は水勢に驚いて逡巡するのみである。書生さんは非常に逸やり立ってカに任せて無理やり、細引きを曳いた処が、轡から細引が離れた。馬は驚いて下流に向つて走り込んだ。書生さんは驚いて裸体になつて河中に踊り入りて馬を抑へで漸くのことで向う岸に引返へすことが出きた。
僕はそれを崖の上から見ながら、汽車の時間に急がれて、「何分頼む」と大声に叫びつつ、帽子を振って、書生さんと馬に告別して帰途に就いたのであった。
話は前に戻って台湾庁長の佐藤謙太郎氏が、高等学校の学生時代より自分と大いに競争をして竹翁先生のもとに通ったものであった。平素お互ひに親しく往来はして居るが孰れも負けぬ気の一徹者とて、我劣らじと励んだ。
或夜一管を携えて上野不忍弁天社畔に野外吹奏を試むべく往った処が、自分に先んじて弁天堂の横手の、水に望んだ松樹の下で、盛んに吹いて居る者があるので、自分の吹く腰を折られた。何人であらうと思うて近附いて見ると、豈図らん佐藤君であつた。其の後は月夜に乗じて.あの付近や図書館道りで、野外吹奏に出掛けたことが度々あった。自分は一種の奇癖があって、昼間寝て夜間種カな思索に浸る。時に一管の尺八を携へて林間などを彷徨しては自己の安心立命や、芸道の帰趨を索面とした。索めんとしてはますます凝図が増すばかりで、果ては疑団の深みに陥って了って、夜も昼も自分と世間との際涯も分らなくなるまでに思索に沈ることがあつた。叉製管の事も佐藤君と競争の有様で、一心不乱に従事したものであった。処がが佐藤君に一つの奇談がある。或時佐藤君が一週間ばかり留守になった。如何したのかと思ってゐたら、同君は静岡の吐月峰に竹材を掘りに往かれたのであった。二週間位で帰る積りであったのが、つい三h日延び四日延びて、竹は数十本掘ってが、旅費が欠乏して、帰途には横浜までの切符しか買う余裕しかなくなった。に角横濱までは無事着いたが、嚢中舞一物なので、それから飯も食はずに重い竹材を担ってウンウン唸りながら六、七里の道程を夜中かかってようようの事で翌朝品川に辿り着き、俥に乗って自宅に帰ったそうだ。それ位熱心なものであった。自分もそれに劣らねはど苦心して競争をしたのである。
斯ほど熱心な佐藤君の事だから自分は譜点法の利益を説いて、頻りに其の修得を勧めたがけれども同君は頑として応じなかった。それが為に今は残らず忘れて了って、管はよして居られるさうだが措しい事である。

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