雅号に就ての紛争 雅号を用ひざる所以


今日尺八吹きであって、多くの人は雅号をつける。が自分は雅号をつけない。其の来歴を聊か懺悔的と理想的に述べて置きたい。自分も曾ては雅号をつけた事がないではない。自分孤児である処から古詩にある孤松秀づの句より採りて孤松と号した事がある。叉自分は故郷に居る頃に書に些か趣味を有って居って、落款に雅童の号を用ひて居つた。それは京都の雅人大雅堂に私淑して、大雅堂ほどの風流三味には及びもないが、せめて風流として大雅堂の顰みに倣ひたいと云ふのが、自分の理想であったから、大雅堂の大をとって、ただ雅堂と落款に書いて居つた。處が堂は童に音が通ずるので、懇意な友人等との往復書面には稀に雅童と署名したことなどもあった。
其の常時はまだ竹翁先生に就いて本曲を學ぴつつあった頃で、童の字は許されなかったのである。で一日も早く本曲の皆伝を受けて、童の字を公然頂戴したいと云ふ希望を有つて居つた。然るに先輩の福城可童氏が、竹翁先生に「川瀬は如童の名を襲ぐべく運動して居る」と云ふことを告げた。
先生は之を聞かれて非常に不快に感ぜられた。其の所以は、如童と云ふ名は初代古童の師匠の名前であつて、且つニ代目如童、即ち原如童氏は襲名の事に付て先生との間に紛紜があつた。其の間柄の面白くなかつた、如童の名を襲ぐぺく川瀬が運動をして居ると云ふのだから、先生が不快に感ぜられるのは必然なことで無理もなきことである。
それは全く虚妄のことであつた。何かの間違ひを可童氏が聞き違へられて、竹翁先生に話されたものと見える。其の事に就て山登萬和先生より密かに親切な注意を受けた。
之を聞いて自分は一途に可童氏が自分を中傷せんが為に虚構の事実を設けて讒訴したものに相違ない、と早合点して竹翁先生に喰つてかかつた。
其の時恰度可童氏も来合せて、遂ひに同氏と激論になった。自分の主張としては、可童氏は宜しく前言取消の謝罪状を出すべき責がある。此謝罪状を取らねば自分は断じて承知が出来ないと頑張った。
先生は「自分さへさう云ふ事を認めなければ、それで差支へないぢやないか」と慰められた。けれども自分は自分の一徹心より其の主張を一歩も枉げなかつた。
終ひには竹翁先生の怒りに触れて、「さう云ふ頑迷な事を言ふなれば向後破門をする」とまで言はれたが、一徹の自分は「たとへ破門を受けやうとも、此主張がとほらなければ承知が出来ない。破門をなさるなら甘んじて破門を受ける」などと云ふ無謀極まる言を放った。
先生の夫人は非常に心を痛められて、「兎に角、門入間に左様な葛藤を生じるのは面白くないことだから、先づまづ堪へて仲よくして貰ひたい」などと種々仲裁をして下さつた。それでも自分の一徹はまだまだ余塵が牧まらないで、可童氏の宅に度々押寄せて談判したことがあって、可童氏の紬君もほとほと持て余された模様であった。
其の時つくづく思つた。一体雅号などといふものは畢竟枝葉に属するもので、是あるが為に斯様な確執も生ずるので実にくだらぬことである。
一例を挙げて言へぱ釈迦が衣鉢を傅へて、達磨を経て五祖大師より六祖慧能大師に衣鉢を伝ふる際、色々紛争があつて果ては慧能を殺して了へと云ふ争ひまであつた。此衣鉢を傅へると云ふことは、其の道に利益もあるが、又弊害も少くない。そこで慧能は其の弊害に鑑みて、衣鉢を滅して了ったと云ふ事さへある。雅号なども師弟間の情誼を繋ぐものとして、道に利益もあるが、一面には弊害も少くない。
自分は如童問題以来、深く深く其の弊害を思うて、終生雅号と云ふものはつけまい。自分がつけんければ、人に譲るるべきものもなく又人が得ようとする者もない。
此確信を以てそれ以来断念してりつない。自分の門人には雅号がつけたければ勝手につけさせるが、自分には譲るべき雅号はないからつけるつけぬは、各人の自由意思に委すと云ふ主義にして居る。本来芸の一道に天の使命と云ふ自学を持って其の道に従ふ者は、心の奥底より師を尊敬し、私淑するの余りに、其の雅号の一字を乞うて、自分の雅号にすると云ふことは、最も美はしく、嘉すべき習慣ではあるが、多くの場合に於て、何等尊敬も私淑も持たぬ者がただ世間に售りたいとか、知られたいとか、便利を得たいとか云ふ卑劣心から雅号をつけると云ふことは、擯斥すべき、叉唾棄すべき事柄ではあるまいか。
甚だしきに至つては雅号の切売転売が行はれてをると云ふに至っては実に慨嘆に堪へぬ次第である。故に自分は雅号をつけることは、決して悪いとは思はぬが、其の弊害に鑑みて、今でも其の主義を主張して居る。恐らくは終生此主義は変らぬ積りである。二十余年を隔てた今日、此問題に就いて、冷静に其の原因を遡つて考へて見ると可童氏が何か聞き及んだ事を、無意識に竹翁先生に、世間話としてされたまでのことであつたかも知れない。それを自分が深く咎め立をして、やれ讒訴のやれ中傷のと言ひ張って、竹翁先生御夫妻に御心配や御苦労をかけたりしたのは、畢竟自分の修養の足らざりしと、青年気鋭の客気より横道に外れたのであつたと、今更漸悔の念に堪へない。此点は隔世の師に対して深く深く其の罪を謝すると同時に、地下の可童氏に対しても、自分の短慮軽忽を謝して居る次第である。
所謂因縁とでも言はうか其の問題以来、竹翁先生と自分との間柄は、一種無形の幕の隔りが附いた。それやこれやで先生御存命中は、永く永く教へを受けぺき筈の自分は、つい閾が高くなつて、稽古は約三ケ年間ほど受けたが、其の後は折々お訪ねする位のことで、師弟間の情誼はまたもとの如き温味を有つことが出来なかつたのは終生の恨事である。因みに竹翁先生より親しく稽古を受けたものは、本曲(全部繰返し二回、)と山田物数曲と、生田物十曲ほどであつた。上原先生には本曲全部繰返へし二回と、外曲は若菜辺まで十数曲御教授を受けた。
其の余は上原先生から譜を頂戴しては、自身で研鑽をしたのである。兎にも角にも性来魯鈍の自分が、斯道の宣伝をして居ると云ふことは、二師の懇篤なる賜である。今や二師ともに登天せられて此世に在さず、為に一層感謝の念を強くして居る次第である。
新花町時代のことは、此時代は、世間と没交渉で、一途に芸を磨くことに努力した時代である。其の当時、琴三絃を弾く三四名の師匠連が、宅に集合して、午後から夜まで打ち続けで、数弾きの練習をしたことがある。尺ハの方は初め自分一人であつたが、此会は柳田西小川町時代の者も、数年間継続して、後ちには門人の主だつた者なども加はつた。三浦君、鎗田君なども其の内の人であつた。

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