最初の関西旅行


豫ねて自分の尺八が奥州流であつた處から、一通り琴古流を學んで、其の間芸道に就ての疑義を生じ、其の疑義はますます深く成り行くので、一度機会があつたならば他流の尺八なるものを窺ひ知りたいと云ふ素念で、西京は音楽の淵源であるから、是非一度関西に遊んで観察したいと思つて居つた。
当時高田商会の廣田理太郎氏が阪京地方に出張される處から「一緒に京阪地方を旅行せぬか、必らず得る処があるだらう」と、再三の勧めであつたので、遂に三十年春三月、同氏に先立つて東京を出発し、京都に着いて上原先生の御配慮で三條通りの十字屋支店に投宿した。
何しろ初めての上洛の事ゆゑ、見聞悉く新たならざるはなく、琴曲の大家で、古川、松坂両氏を初め、幾多の琴曲家を訪問したり、又盲唖院に赴き、音楽の情勢なども観察した。
時恰も盲唖院の大会が祇園座で開催され、自分も同院長の鳥居氏の紹介で二曲ほど吹奏したことがあつた。殊に樋口孝道氏とは二十七年に同氏が竹翁先生に就て本曲を習ひに見えた常時、褸々出会した縁故などもあり、時々樋口氏を訪問して、東福寺に献笛したり、智恩院の釈迦の降誕祭に連管で、本曲を吹いたり、其の他同氏の好意に依つて、各所見學の便宜をも得、同氏との交友一層の親密を加へた。
其の当時、樋口氏方に清水静山君が、書生となって居られたので、知合ひの間柄になつた。
同君とは後年九州地方漫遊の節に因縁深い話がある。それから伏見の願教寺の住持が非常な尺八好きであると云ふことを聞き伝へて、訪問した処が、生憎留守であつた。
然るに某師ぱ翌日早速十字屋の寄寓を訪れて、初対面の挨拶が済むや、突如管を出して吹き合わせを挑まれた。挑まるるままに吹き合せて一曲、二曲、三曲と吹き進むに従って、某師は種々な入れ手をしたり・悪戯吹きをしたりして、様々と喧嘩を挑む様子があった。
此奴なかなかなかの意地悪坊主だわいと思ったが、其の達者なのと、暗符でどんな吻でも吹く腕前とには、実に敬服したのであった。自分も幸い竹翁先生並に上原先生の多年の御薫陶に依つて恥を掻かずにすんだ。
管を吹き了はつても某師は芸に就いての話は一言もせず、ただ喧嘩仕掛けに吹き捲るといつたような調子で、ただ吹くことのみを挑まれて、遂ひに十数曲も吹き続けて先方も怯んだ様子もなく、自分も先づ負けぬ積もりであつた。
恐らくは当方で感服したやうに先方でも或は感服したらうと想像して居る。兎に角善いとも悪いとも、上手だとも下手だとも言はぬが、敢へて侮辱もしないでただ暇があれば訪ねて来てくれと云ふ一言を残して風の如く立ち去って了った。
あまりの奇行ゆゑ、諸人に就て比人の流儀話を聞いた処が、比人は三十年間ほど東本願寺の役僧をした人であつて、毎日本願寺に通つて、終日宗務を鞅掌し其の帰り途に尺八を習って、家路に就くを例としたさうである。
時々お復い講などに出るときには、ただ多く吹きさへすれば宜いと云ふ主義で、自分の気に人らねば曲の半ばだだろうが何んだろうが一切構ひなく、舞台からさつさと飛び降りて平然たるものであつたさうだ。
僕が面会した時の如きも普通人は必らず一言二言のお世辞位を言ふのが一般社交の例になつて居るが、御自分の自慢も言はぬ代りに、僕の管に対しても善いとか悪いとか言ふやうな様子はなく、会うてからわかれるまで吹き詰めで、十数曲を喧嘩腰に吹いたことなどは余ほど風変わりの人である。
今になって考へれば、其の時再びお訪ねして其の人格や性行などをも仔細に調べたならば、斯道に就て裨益する処あったかも知れぬが、僕もまだ二十歳代の青年であつたから、癪に障にさわる坊主め位に思つて、再びお訪ねをしなかったのは疑念の至りである。之等なども旅行中自分が覚悟し叉刺激を受けたけたー事実である。
宗悦の話は大分詳しく聴いた。殊に宗悦の愛玩したと云ふ秘蔵の管を示されたが、出来は天然のままに委したものゆゑ、無論我々の用ひる人工を加へたものとに異なつて、製作其の物は先づ値打の中には数へられぬが、竹材の見事なことは、前後あの位立派な竹材を見たことがない。
其の節同氏の若い頃、公会で琴八面の中に尺八ー管で「八段」を吹いたところ、其の席では絃に消されて聞こえなかつたが、室外で聞くと竹の音のみ最も超越して聞こえたと云ふ自慢話にあてられたのであつた。
殊に御舎弟の玉堂氏の事ぱ非常に推賞されて、君に聞かすことの出来ぬのは残念であると歎息して居られたのであつた。
尚古川竜齋師にお目にかかつた時には、「磯千鳥」お願ひして、之に就いて色々有益な御注意を受けた。
上洛後十五、六日後れて廣田氏が著京された。そこで同氏と祗国の中村楼に数日間同宿したが、同氏は非常な豪酒で、二日でも三日でも殆ど飲み続けるので自分は一滴も飲めぬから困つた。其の時分中村楼には、地唄の弾ける芸妓なども来た。さすがは京都は地唄の本場だけあつて、芸妓などにもよく地唄を弾く者があるわいと思つた。
それから横田氏は勧めの都合で、京都を去られたが、自分は尚十字屋に四、五十日も残つて、京都の観光に勿論、大阪、神戸にも赴き見物に日を送つた。
比処で初めて旅の味を知り、叉親しく関西の風物にも触れたのであつた。其の時臼分が感じたのは将来どうあつても関西に琴古流を広めんければならぬと云ふ臍を堅めたのでありた。
京阪神の風光の明媚などを話すのは、蛇足であるから省くことにする。
当時大津に軍医を奉職して居つた竹翁先生の高弟大高新藏氏(医學士)を訪問した。
此大高氏は非常に多趣味な人で、西洋画家某氏が近江八景寫生の為めに大高氏方に滞在して居られ、其の画家と音楽や絵画に就ての談論をしたことなどもあつた。
大高氏は絵にも音楽にも其の他風流の趣味のある快活な親切な人で、一泊御厄介になつた。氏の管は大才肌の人で、管に就いての理窟などはー向言はぬ人で、興来れば吹き興去れば止めると云つたやうで理詰めの尺八ではない。
氏は學生時代に竹翁先生のもとに通はれた頃、先生から頻りに望を嘱された人であつた。
だが天才肌の欠点として飽くまで修養をするとか、飽くまで研究をするとか云ふやうな、面倒臭いことは頓と念頭に措かれぬ人であつた。
為に一向尺八としての学説様の事は一言も云はれなかつたが、自分は今でも大才肌の人として敬意を拂つて居る、其の後掛け違つて再会出来なかつたが十年ほど前に病歿された。
帰京の途次、豫て聞及んで居つた、有名な兼友西園翁を名古屋の住宅にお訪ねした処が、前々年物故されたと云ふことであつた。京都では塚原氏に會ふことが出来ず、名古屋では兼友氏に會ふことの出来なかつたのは返すがへすも遺憾の極みであった。
当時尺八の専門家は至つて少く、且つ八尺吹きとて関西まで出掛けたのは恐らく私が嚆矢であつたらうと思ふ。
其の後先輩の福城可童氏が琴平詣りに出掛けて、大阪と京都に立寄つたと云ふことを聞いた。
竹翁先生の琴平詣りの途中、京都に立寄られたのは、其の後のことと聞き及んで居る。何分にも其の当特は、尺八吹きが他国まで遠征を試み或は遊歴と云ふやうな意味で旅行するのは、甚だ稀であった。
かくて私の関西旅行も三月から六月に及び、四ケ月日で帰京した。其の後三月ほど飯田町の親威のもとに厄介になり、九月神田西小川町に家を持った。
之からますます尺八専門家の境遇が非常に多端且つ複雑になるのである。

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