上原先生の好意


前に述べた関西旅行まで、斎藤先生に學資金の補助を願って居った。為に世間とは全く没交渉で如何にして生活しようとか、如何にして交際を圓滑ならしめようとか云ふ如き世間的の頭脳は全く零であったが、門人の数も幾分づゝ殖え、さう何時までも御厄介になって居られぬ処から、神田西小川町時代から自力で生活することに取極めた。
言はば是からが真箇に世間の荒浪に接触したと云うても宜いのである。
其の時分門人は十四、五人位何時も増減なくあった。
上原先生のお引立に依って音楽學校や其の他の公會などにも度々出、叉琴曲の先生方の会などにも、時間の許す限りは世間を広くすると云ふ意と勉強と云ふ意から、及ぶ限り交際を広めた、そこでどうにかかうにか一戸を持って自活し得るまでになった。
當時上原先生のロ癖のやうに「白勢(高實)の門人で佐藤(左久)と云ふ非凡な名手が居るが、惜しい哉田舎(越後)に往ってゐる。斯様な名手を田舎に置くのは實に惜しいものだ。あの男でもゐたならば、君の勉強の助けになるが....と言うて度々嗟嘆されて居った。
之を聞いて自分も左様な人と是非交際をして、藝の研究の一助としたいと云ふ希望を有って居った。
然るに圖らずも関西旅行の前に、浅草花川戸の小山(キミ)氏から、「越後の佐藤左久さんが東京に来たいと云ふ相談があるが、貴下にも力添へを願ひたいと云ふ相談があった、かねがね上原先生より聞き及んでゐる名手のことゆゑ一も二もなぐ快諾して「自分はまだ微力の身ではあるが、及ぶ限りは後援を致しませう」と約した。
で関西旅行から帰って見ると、既に佐藤氏は小山方に著いて居られた。
そこで同氏に対面をして、早速自分の處とほど遠からぬ三崎町に借家を一軒見付けて同氏を住まはせ暫く其處に居られたが、不便な處から再び三番町の招魂社裏に借家を尋ねて、其處に住はれることになった。
自分は朝に晩に暇さへあればお訪ねをし、叉藝の話や作譜等で深更に及べば度々泊つたことなともあった。
叉先方からも自分の宅に泊りに来られたことなどもあった。
互ひに親密に往来して、自分の研究上大いに好都合であった。其のうち芝方面にも出張所を出されることになって、追ひおひ稽古場も確立せらるるやうになった。
叉ともに江ノ島などへ旅行したりして、親密の度はますます深くなり、藝に就いても大いに得る所があった。
斯様に同氏との交際はー、二年間円満に継続して居ったが、不図したことから、例の自分の一徹心が端なくも氏の感情に触れて、不和を生じた。
此處で話の順序は狂ふが、話の序だから佐藤氏との関係に就て、最近までの筋道を話せば次の如くである。
佐藤氏と不和になってから十五年間ほどは交際を絶つて居った。
尤も妻は深い交際ではないが、往来はして居ったが、自分との関係は彼我互ひに一種の妙なはめが継続して、頓と往来をしなかつた。
処がつい四年前突然に上原先生から「君も最早不惑の齢になつたのだから、佐藤との確執も、もう払ひ去るべき時期ではないかと思ふがどうか」と云ふ話があった。
先生のお考へでは、相互の和合は相互の利益であると云ふことを言外に意味されて居るのである。
で自分は足下にお答へをした。
絶交の当時はまだ世の荒浪にも馴れぬ一徹の書生気質でありましたが、今になって考へて見れば世間一般に有勝ちのことで、左ほど咎めるほどの事はないので、絶交を申し込んだ自分は其の短慮であったことを悔いて居るのですと答へた処が、先住は「最早其処に気が附くけば僕も大いに安心だ。
就いては僕が中間に立って和睦を取計ろうと思ふが、異議は無いか」と云うことであつた。
無諭異議のあろう筈はないから、異議なき旨を答えた。
そこで早速上原先生から佐藤氏に間合せられた處、佐藤氏も悦ばれ、同感の旨の挨拶があって、茲に彼我の交情は再び旧に復したのであった。
又帰京後数日を経て、相提携して再び東北八県の遊歴を試み、七ケ所に公會を開いた。
其の折も将来互いに相提携して、海外にまで踏み出して各自の従事する道の開拓の為に盡瘁しようじやないかと云うことを精神的に誓った。
今年など其の第一着手として、満鮮の旅行を提携して企てる約束であつた。
今年四月大阪で会合して、斯道の為め諸般の協議遂ぐべく約して、僕の発足に先立つこと七日前に出発されたのであった。
然るに天此名手に年を假さず、此会合前大阪の客舎に於て不慮の病気の為め急に逝去されたのは返す返すも残念の至りである。
此の項終わり 佐藤左久さとうさきゆう (1858) 安政5年 (1915)大正4年4,5大阪山田流筝曲家。元伊予松山藩士の長男。五歳で失明。三世白勢検校に入門、初め左京一を名乗ったが、のち左久と改名。「小夜砧さよきぬた」「佐保姫」「勾当内侍」など作品は数多い。

平野健次(平凡社、日本音楽大辞典)より引用

竹友社MENU

竹友社案内

〒160-0008
東京都新宿区三栄町三
TEL:03-3341-5755
e-mail:jimu@chikuyusha.jp