點譜の公刊問題 青寫眞譜の濫觴


前に述べた通り、上原先生に譜點法の公開を願つたが、先生の都合で延期することゝなり、暫く其のまゝとなって居った處、どうしても斯道の向上發展を図るには、譜の公刊をしなければいけないと慫慂した。
先生の云はれるには「公刊はまだ早い。第一に需要者が少い。君が此際この譜點法の効果を斯界に知らしめ、斯界を琴三絃の今日の如く發展せしめた暁でなければ、公刊は言ふべくして行はれない。尚其他にも公刊をなすには色々思惑のあることである。何れ後年君と共に公刊をする時期に達するだらうからそれまで忍んで時機を俟つが宜い。それにまだ調べのつかぬ曲もあり、叉形式に於ても實際教へる段になると、不便を感ずる點もあるであらうから、其の邊を充分に豫想して他日の刊行を目標として研究努力しなさい」と言はれた。
自分は押返へして「御意見は御尤であるが、此事は一日遅れれぱ一日の損であるから、情實や障碍を排して是非遂行をするが斯道に忠なる所以ではありませぬか」と説いたが、温厚なる先生は、前言に一語も附加せす又一語も減少せす同一語脈を以て徐ろに諭された。
先生の言葉にも情理に於て首肯の鋒鋩を収めたのであった。
 其の後三十三年より三十五年に至る三年間、関西に武者修行的旅行を企て各地を遍歴して後ちのことであつた。田中正平博士より、尺ハの譜と云ふものは一體どんな事になって居るかと云ふ御質問であったので上原先生の話を逐一お話した。
すると博士は謄寫に代へるに青寫眞を以て複寫したらどうか、公刊に至らざるまでも其の道を廣めるには非常な助けになると思ふ。
若し青寫眞を試みるならば、自分の知人に青寫眞の方法に精しい者があるから其の者より傳授させよう」と云ふお言葉であったので早速それを試みた處、非常に便利である處から、漸次ひろく用ひることになった。
是が今日の濫觴である。
其の當時若しも田中博士の御注意がなかつたならば、琴古流の今日の發展は到底見ることが出来たかったのである。
此點は博士に對して満腔の謝意を表して居るる次第である。
それから明治二十八年、愈々譜點法公刊の時期に到達し、年来の宿志を遂ぐるに至った。
此譜點法公刊の事に就ては、後日稿を別にして詳述することゝし、此處には単に公刊の創意と青寫眞實施の経路のみに止めて置く。
以前から上原先生には、音楽の理論を承はって居った。
知らぬ當時は兎も角幾分なりとも闡明して一切の理論を氷解したいと云ふ希望から、先生の説のみでは嫌焉節(あにあらぬふし)もあることを感じた。
時恰も田中博士が独逸から帰朝せられた。
博士は十五年間も独逸に居られて、西洋楽の造詣も深い上に、加へて日本の音楽にも非常に趣味の深い方である。
博士の説として、西洋の音楽は迚も日本の音楽などの企て及ぶ處ではないが、併し日本人は日本の風俗人情から自然に生れたものでなければ日本人の音楽として相應するものでないと云ふ根本主義を執って居られるので、此見地よりして日本音楽を研究する會を企てられた。
上原先生も洋楽の理論に通じて居られると共に、日本楽の趣味は勿論の事、其の楽理にも通暁されて居る處から、略々田中博士とも説が近かった。
自分も上原先生の推薦に預って、田中博士を中心とした日本音楽の研究會の一員に加へられた。
其の集會所は舊満世橋側の元満世倶楽部であったように記憶するが、其の會合の際に田中博士は日本楽に對する希望を述べられた。
當時一般の人は西洋楽は政府で保談をして居ることでもあり、徒らに西洋楽のみに心酔して日本の音楽を淫靡なる外道楽の如く排斥する時代であった。
然るに博士の日本音楽に對する希望の演説を聽いて、大いに感激して百萬の味方を得たやうな心地がした。
 爾来専ら博士に就いて日本楽の指導を受けたいと云ふ希望を抱いた。
幸ひにして此會合が種因となって攻楽會なるもゐが生れた。
會員は音楽學校の職員又は同校出身者、宮内省雅楽寮の人々及び軍楽隊の人などが其の主なるものであった。
それから音には研究問題の議案などを配附する用向や其の他色々事務がある處から、上原先生の御依嘱で自分が其の事務を取扱って居りた。
此會も五、六年間継続したが、大した事業もなし遂げずに了ったが、併し自分に取っては得る處が非常に多かった。
後ちに田中博士は「日本楽の為めには自家の研究は勿論個人的にも尽瘁する考へである。それにはどうしても世人に知らしめる必要がある」と云ふ處から今日の美音會を創立された。
自分は日本楽の為に博士の功労を感謝して居る。
尚自分は析に触れて博士より音楽に関する高説を承はったりして裨益する事少なからぬのである。
博士は別に子弟の贄は取られないが、子弟同様の有益なる指導を賜はるので衷心大いに感謝してをる次第である。
 西小川町時代には、美術學校の人々が大分入門された、島谷幡山、筆谷等観氏などの見えたのも其の頃である。
斯界に奇才と謳はれた給田?童(? 竹冠に公、漢字源、新明解漢和に見当たらず、鐘輔注)君も此時代に入門されたのである。
君と初めて會うたのは、横須賀の琴の温習會で君の『干鳥の曲』を聴いて、頗る其の奇才に富んだ吹き振りに天才家たることを見受けた。
だが正しい道程を経ていない為めに、其の才の溢るゝに委せたまゝの吹き振りであったので、甚だ惜しいことであると歓じたのであつた。
それが縁になって、君は譜點法を學ぶべく入門したのである。で一を聞いて十を知ると云ふ非常に頴敏なる資に加ふるに熱心を以て當てられたのであるから、非常に早い進み方であった。
後ちに奇才と謳はるる萌芽が既に其の當時から藝に逆つて居つた。
惜しい哉君は数年前より大患の為に管を手にされることが出来ぬことになったのは、返くがえすも遺憾のことで同情に堪へない。
が此人にこの奇才を与へて健康を与へないと云ふことは、甚だ矛盾して居ることを疑はざるを得ない。
次に現今盛んにやりて居られる水野呂童君なども、槍田君よりは少し逞れて三宅玉童氏と共に入門された。
君もなかなか質の良い人で、椎田君の天才に比すれば稍々修養側に腸する人ではあるが、其の常時既に勝れたる資質がよく表はれて居った。
今日盛んにやって居られるのも偶然ではない。それから自分が三十三年関西旅行に出かけた後ちは三浦琴童君に同君の稽古を託したのであった。
依って以て君は大成されたのである。
叉大竹古習(越後出身)と云ふ老人が函館から見えて入門した、此人は明治の初年に上原先生などとともに竹翁先生に就て習った人で、佐藤左久氏と奥羽地方を旅行などをして具さに旅の艱苦を嘗めた人である、山形縣の米沢で佐藤氏と分れて函館に十余年間尺八の師匠をして居った。
處が第一の故郷たる東京が恋いしくなりて三十二年の頃妻子を引連れて出て来た。
常時既に譜除法が世間に普及されつつあって其の價値を世間に認めらるやうになつた頃であったから、時代の進歩に遅れてはいかぬと云ふ處から、佐藤氏の注意に依って自分のもとに入門されたのである。
 賓は先輩も先輩大先輩の人でもあり且つ老人の事でもあり、稽古は随分と困難であったが、田舎に居った為めに時代に遅れた人たることに同情を深くした。
遠くては通ふにも困難であると云ふ處から、直ぐ自分の住ひの近所の今川小路に借家されて、米塩の為に指南をし傍はら勉強に通はれた。
稍々譜點法を自得された頃に大患に罹って在京中に病歿された。
時代に遅る々と云ふことの悲惨は實に同情に堪へない。
自分等も大竹老の最期を思ひ起すごとに、殷鑑として居る。
前に述べた加藤有山老などの、『小督の曲』を習ひ了はって翌日没したのも、此大竹老と前後でありたと記憶して居る。
物質的の悲惨もさることながら、時代に遅れたと云ふ精紳的の悲惨は殊に記憶に一層深き印象をのこすものである。

此の項 終わり

らん‐しょう【濫觴】‥シヤウ 本文に戻る
[荀子子道「其源可以濫觴」](長江も水源にさかのぼれば、觴さかずきを濫うかべるほどの、または觴に濫あふれるほどの小さな流れである意) 物の始まり。物事の起原。
おこり。もと。「近代医学の―」

しょう‐よう【慫慂】 本文に戻る
傍らから誘いすすめること。「―黙もだし難く」

ほう‐ぼう【鋒鋩】‥バウ  本文に戻る
刃物のきっさき。ほこさき。気性や言葉の鋭いたとえ。

せん‐めい【闡明】  本文に戻る
はっきりしていなかった道理や意義を明らかにすること。「本義を―する」

じん‐すい【尽瘁】   本文に戻る
[詩経小雅、北山「或尽瘁事国」](「瘁」は病み疲れる意) 一所懸命に力を尽して労苦すること。「事業に―する」

にえ【贄】  本文に戻る
1)古く、早稲わせを刈って神に供え、感謝の意を表して食べる行事。万葉集14「鳰鳥におどりの葛飾早稲を―すとも」

2)朝廷または神に奉る土地の産物、特に食用に供する魚・鳥など。貢物。供物。夫木和歌抄33「たむくべき神の―ぞと事よせて」

3)会見の時の礼物。贈物。進物。宇津保物語吹上上「あみすきなどひつぎの―たてまつれり」

いんかん‐とおからず【殷鑑遠からず】‥トホ‥  本文に戻る
[詩経大雅、蕩](殷王朝は前代の夏かが滅亡したことを鑑かがみとして戒めよの意) 失敗の先例は遠くに求めなくとも、すぐ目の前にある。

竹友社MENU

竹友社案内

〒160-0008
東京都新宿区三栄町三
TEL:03-3341-5755
e-mail:jimu@chikuyusha.jp