神と運命の支配免疫性の煩悶苦脳(その2)


それから自分は斎藤先生の御行動にも注意を払つたのであった。
夫れは先生は人生を如何に解されて、多数の書生や右の如き精神病者に至るまでも萬斛の慈愛を以て世話されたり、本業の傍らあらゆる公共事業に尽瘁され日も亦足らざる観があるのは如何なる著眼點を以て、人生問題を解釈して居らるゝかと云ふことに終始注意を櫛って居ったが、修養乏しき自分の心などでは、到底窺ひ知ることが出来ず、たゞ單に高い人深い人と云ふより以上の解釋が附かない。
たざ汾々慈愛を感ずるのみであった。
夫れ故に自分は兎に角先生のやうに、勤勉努力するより外に致し方はないと観念して、還へる気になつた。
そこで翌々日お暇乞ひをした。其の時奥さんから常例になつて居る「川瀬さん、帰りの旅費はありますか」と云ふお言葉かあつた。
無いときは其の旨を答へて汽車賃を頂戴するが、其の時は蓄へがあつたから「あります」と言ってお別れしたのであった。
話は少し遡るが此場合に話して置きたい事柄かある。夫れは外でもない。上原虚洞先生に関する事である。自分が上原先生の御厚恩につたことは前にも述べて置いたが、茲には先生が門人としての自分に對せらるゝ情誼の、如何に深厚なりしかと云ふ事實の一端を述べて置かうと思う。
神田西小川町に移ってから後ち、時々斎藤先生御夫婦から「君も一家を有つ身となったのであるから、良縁があったら家内を迎へるが宜からう」と、云ふお勤めを受けたが、前にも述ぶる如く煩悶懊悩に日を送つて居つた際とて、妻帯どころの沙汰ではないから「そんな問題どころぢやありませぬ」とにべなく答へて、何時も辭して居った。
其の都度先生は夫人に向はれて「川瀬君はたとへ藝は成功しても商売としては成功は萬々おぼつかない。どうも尺八だけでは到底妻子を養ふ事などは出来ぬ。だから産婆か、看護婦か、女教員か、何れ職業を有つた婦人を妻とするより外に途はあるまい」と言はれるのを、傍で聞きながら、恰も他人の事でも話して居らるゝやうに思ひ、之に対して何等の意見も挟まなかったのみか、妻帯問題如きは殆ど念頭に浮べなかった。
自分がそんな風であるから夫人も揶揄半分に「川瀬さんに子が生れたら人間が生れないで尺八が生れるだらう」などと云ふ冗談を言って笑はれるのが落ちであった。
自分の妻帯問題に就いては斯う云ふ滑稽もあった。
其の頃神田柳原の靴屋の隠居に長岡と云ふ入があつた。此人は竹翁先生の門下で、自分と気が合ふと云うては時々尺八携帯で遊びに来られよつたが是も亦老人の癖として或日嫁を世話しようと言ひ出した。
前にも言ふ如く自分は妻帯などと云ふ事は問題にして居らず又一面には世事にも暗いことゆゑ「へい左様ですか」と云ふやうな頓馬な返辭をしたから、老人はてっきり承諾したものと早合點して、一生懸命に諸処を問ひ合せた末、一人の嫁の候頂者を探し出して具体的に話を持ち込んで来た。
斯かる場合に最初から貰ふ気がなけれぱ断然断はるべき筈であるのに世事に暗い自分は、矢張り前のやうに曖昧な返辭をして居つた。
夫れが如何なる結果になって、他人に迷惑を及ぼすかは少しも予想しなかった。然るに親切一片、昔気質の老人の事とて、善は急げと候補者を急き立てゝ翌日当人を見合ひに連れて来た。
處が自分は其の娘が前日の話にあった嫁さんだか何んだか一向気が附かず迂つかりして居つた。さうすると老人が自分を小陰に招んで「今日連れて来たのが昨日話した候補者の当人だが気に入つたかどうか」と言はれて、初めて吃驚仰天して、之は縮尻つた。
どうしたら宜からう。なぜ自分は昨日あんな曖昧なことを言ふたらうと百度悔いても駟馬も及ばず、兎やせん角やと途方に暮れ、一方ならず頭を脳ましたが差当り好い分別も出ないので、逡巡しながら「兎に角後から返辭をしますから今日の處はどうか引取つて貰ひたい」と漸く二人を帰したものゝ、夫れから如何にして断らうかと其の晩一夜寝ずに思ひ悩んだ。
元来自分は他人の好意を無気に断はることが出来ぬ悪い癖があって、時々抜き差しならぬ破目に陥ることがある。
幾ら考へても良策がないので、此上は百方陳謝するより外はないと決心して、翌口隠居を訪問して平謝りに謝まって「自分は元来妻を迎へる心は無いのであったが、貴下の御親切にほだされて情として、断然お断はりしなかったのが自分の大の過失であつた。
今更何んとも申し訳がありませぬ」と叩頭陳謝した處が隠居は「否さうぢやなからう。候補者が悪いので君は貰ふ気がないのだらう。夫れに違いひない」と悪推量して容易に承知する景色がないので、自分もほとほと持て余した。
「否決してさう云ふ次第ではなく、気に入る入らないは問題外で、頭から妻を持つ気がないのだから悪く採らないで賃ひたい」と漸くのことで隠居を宥めて、ほっと息を吐いて家に歸つた。
此失敗事件に懲りて、今後妻帯問題では如何なる好意を以て持ち込まれやうとも、又如何なる事情があらうとも、情を殺して断然謝絶することにしようと決心した。
かくて間もなく又々結婚間題が持ち上つた。
先輩の福城可童氏と、自分がちよつと教へたことのある川瀬復童氏(同姓なれど親族關係なし)との間に門人の事から確執を生じて其の揚句、復童氏は築地の柳花園で『松竹梅』を澁滯なく吹き得ねば氏の體面上腹を切るか、然らずんば刃傷沙汰にも及び兼ねまじき形勢であつたさうな。
復童氏は思案の末、豫ねて上原虚洞先生の高徳を欽慕して居る處から、先生に縋つて其の善後策に就いて意見を需めた。
先生は即座に「左様な事は決して心配に及ばぬ。川瀬に往つて相談して見るが宜い」と、早速添書を附けて自分の許へ寄越された。
一通り事情を聴くに同情すべき點がある處から、恥を掻かぬまでに充分教へ氏も一心になって會得した様子であつた。
夫れかあらぬか幸ひに無難に演了することが出来て、氏の面目も立つたと云ふ事であった。夫れ等が原因をなしたか如何かは知らぬが、其の後復童氏は、根津の尺八師成瀬氏と同伴で宅に見えて、口を揃へて言ふには「貴下に持つて来いのお嫁さんを世話したい為めに来た」と云ふ。
其の婦人は去る町家の娘で、出戻りではあるが年齢恰好も宜し、其の上に三絃も一通りは出来おまけに家屋敷と持参金まであることゆゑ、此縁が纒まらば貴下も即座に立派な一家庭が出来る譯で、又と得難き良縁と思つたから是非お勤め申す」と言うて、其の持参金は何千圓とか何萬圓とか貧乏人の自分に取つては莫大の金高を言うたやうに記憶して居る。
なみなみならんには二つ返辭で承諾すべき處だが、前に長岡隠居の世話で懲々して問もない事でもあり、且つ藝術の神聖を信じ、人生の疑惑と藝道の歸趨に煩悶して居る折柄でもあり、叉持参金などと云ふ忌まはしい事を聞いて、ことさら自分を堕落の淵に誘惑さるゝかの如き感じがしたので一も二もなく「折角の御好意ではあるが断然お断はりする」ときっぱりと断はった。
両氏は「さうでもあらうが、頑固な事を言はないで承諾を願ひたい」と好意上より恰も噛んで含めるやうに、色々様々と説得されたやうに記憶して居るが、素より利害で判断すべき事でないから遮二無二断はつて了つた。為めに両氏も手持ち無沙汰の様子で歸られた。
是だけの事實では實も葉もないが是からが眼目であるから聽いて、否讀んで貰ひたい。
其の後聞く所に依れば川瀬、成瀬の両氏は、自分か一途に断はつたので今度は方略を更ヘ、上原先生のお聲がかりなれば屹度納得するであらうと見當を附けて、先生を訪問したさうだ。
其の時に先生は御不在であつたので、夫人に面會して、まだ川瀬當人には話さぬがと云ふ前提を置いて右の一伍一什を語った。
夫人は「夫れは川瀬さんに取って結構な話で、主人から言へば川瀬さんも否應はない話、又主人も無諭賛成でせう」と云ふ事であった。
両氏も大いに気乗りがしたと見えて、翌日重ねて先生を訪問して、斯々の次第と語つて、先生の御同意を求めた處が、先生は言下に「夫れは到底駄目だ。川瀬の気性では迚も承諾する気遣ひはないから此縁談は纒まるまい」と言はれた。
夫人は「いえ屹度承諾されますよ」と言はれる。先生と夫人の意見が區々になつた。そこで両人は頭を掻きながら、「實は先日一應本人に勧めたのですが斷はられたので、此良縁を取り逃がすのは如何にも残念に心得たので、先生のお聲がゝりがあつたならば、屹度成就するだらうと上った譯です」と語つた。
そこで先生の云はるゝには「夫れ見た事か、夫れは俺から言うても駄目だ。のみならず此縁談は川瀬の将来の為めに俺も望ましくない」と言はれて両氏も詮術なく手を引くことになり、此縁談は遂ひに事切れになった。
此談話は後ちになって聞知したのであるが、先生が斯くまで自分を御信任下さって、御指導下された事を深く深く感謝して居る。
苟も人の師たる以上は、門人の性行から気質に至るまでを熟知して指導せんければならぬ事を肝銘して居る。
さうして自分如き者は到底、先生の高徳には及びもない事ではあるが、せめて眞似なりとも致したいものと心がけて門人に對して居る。
凡て何藝であれ世間一般の師弟關係の習慣は、單に藝術其のものを傳授すると云ふ其の事柄が即ち師弟の意味を成して居る。
是は大なる誤りで、師弟の義と云ふものは、學藝にせよ、技藝にせよ、知識を信へる以外其の道々に依って正鵠を失はざる様、指導薫化庇護等の徳の存せざれば、眞の師匠の意義に適つて居らぬと自分は考へる。
上原先生の如き人で有つて、初めて眞正の師とも、先生とも仰ぎ頌すべき人と予は信するのである。
薄徳の自分などは到底及ばないがせめて先生の徳の一端なりとも體得したいと心がけて居る。
先生は音楽學校の教授であつたから、音楽學校には何千の子弟があらるゝが、我尺八の子弟としては自分が先づ斯道の一人息子のようなものであるから、こゝらに愛撫薫陶を深く垂れられたのであらうと思ふ。
時には世情に暗く且つ直情径行の自分の事とて兎角他人と衝突が多く、為めに他人の憎悪を受くることが多かつたので、時々先生にお目にかゝると愚痴を訴へて居つた。
さうすると何時も先生から紋切形の御訓示があつた。
「敵の多いのは結構だ。敵のないやうな者では仕方がない。故意に敵を造るのは宜くないが、事を成すに當つて、敵を怖るゝやうなことぢやあ何事も成就するものではない」と云ふ事は幾度も聽かされた。
何時も此言葉の以外に出られた事はなかつた。此お言葉は年古るに従ってますます其の有難味を感じて、御指導の御慈心は汲めどもくめども盡きぬ観がある。
今日でも此お言葉は目分の守り本尊として、自分の信條の生命として居る。
時には修養の足りない自分が、憎悪の念より、私情を以て先生に喰つてかゝつた事も度々であったが、先生は何時もながら超然として、自分の私情などは微塵も容れられなかった。
平素の温情に対して其の凛乎たる秋霜烈日の如きものがあつて眞に廣世の高士であつた。
先生を侯って初めて、師に隨ふ三尺距てゝ其の影を履まず、と云ふ眞意義を了解することが出来るのである。
今でも醫師の事を先生と呼稱するのは、単に病ひを巧みに治する讃辭にはあらずして、醫は仁術なり、と云ふ主義を實行する醫師に對してこそ初めて先生と呼び得るのであるが、今日では慣例上用ひて居る無意義の呼称である。
各種の藝術などにも先生とか弟子とか、慣例上呼称して居るが多くは無意義である。
立派に商売根性を以て営業を営んで置きながら、尚其の上に師に随ふ三尺距てゝ其の影を履まずと云ふ禮節を強ひるに至っては、世俗に所謂石が流れて本の葉が沈む底の顛倒と謂はねばならない。
師匠と云ふよりも寧ろ教員とか職員とか云ふ語の方が妥當かと思はれる。自分もどうか生涯教員や職員では終わりたくない。
棺を蔽ふまでには眞箇の師匠に成りたいと云ふ事が、自分の奥底に潜める素志なのである。
若し老子をして今時師弟間の頽廃を諭ぜしめたならば、師弟の義廃れて大道興ると喝破することであらう。
近頃上州の齋藤先生が来宅せられた時、此回顧録の原稿を御覧に入れた。
處が暫時黙想されて云はるるには、二十幾年の昔君が尺八吹きになり度いと云つた時、之は面白いと直覺して賛成はしたものゝ當時尺八は一般世間に卑められて、法界屋か三河萬歳か、越後の盲女節位に見倣して居る時節故、賛成はしたものゝ、實の處萬一君に方針を過まらしめはしないかと云ふ點に就て二の足を踏んだ。
そこで上原氏を内密に訪うて君の志望に就て、一伍一什の話をして氏の意見を徴した處が直下に答へて云はるゝに「尺八は世人が誤解して居るのである。又世人は尺八の眞価を知らないのである。尺八には進歩の餘地が充分にある故、學業に従事するの意気を以て斯道に従ふは、尤も價値ある志望なりと信じてゐる。さうして川瀬と云ふ男は見所が有るから、是非世話をしてやつて下さい」と云はれ、そこで齋藤先生は最初の直覺の誤まらざりしを喜ばれたと云ふ事である。二十有幾年の昔両先生の間に、自分に關して斯様な對話が交換されたことは今度が初耳である。之か眞の陰穏なのである。計らずも齋藤先生の述懐に依って知ることを得たが故、茲に附記して置く。

この項終わり。

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