武者修業旅行の準備


談話は前に戻って、武者修業に出掛けるにしても素より身に一金の貯蓄とてもなく、裸一貫で出掛けるのであるから、途中行き暮れて辻堂や山神の祠などで一夜を明かすことも覚悟せねばならず、又何時如何なる處で山賊や無法者に出會はぬとも限らない。
夫れには身體と勇気とを充分に鍛錬して、護身の策を講じ置く必要かおる。
それから此旅行が果して一、二年で済むやら五、六年かゝるやら、若しくは十年かゝるやら見當がつかない。
叉志す方面にしても何れとも定め兼ねるが、先づ西に向って出発しようと云ふ事だけは決心がついた。そこで先づ心身鍛錬の段取りとなって、明治三十三年の春、三十一歳の時に、或人の紹介で扇対封を束脩として、嘉納治五郎氏の講道館に入門した。
或日相手の襟を掴んで夫れを引っ外される場合に、左の拇指を挫いて、尺八の裏孔が使へなくなった。
夫れに驚いて、彼これ四ケ月程も通ったが、是が若しも永久に癒らぬことでもあつては大変である。
旅先きで若しも盗賊や無法者につたら百年目と覚悟して盗賊ならば金銭を差出す。
無法者ならば平謝りに謝まることにしよう。
生兵法大傷の基と云ふ比喩もあるから、結句其の方が安全だと諦めて、柔道の稽古もそんな譯で中止しだのは我ながら滑稽に感ぜられたのであつた。

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