誕生日が出發期日


さて出發期に就いて考へるに、之が何月何日に往かねばならぬと云ふ旅行と違ひ、何日出立しても差支へはないので、夫れには多少の未練もあり、恰も水火の中にでも飛び込むやうな心地がして、期日を定めるのに大方ならず思ひ悩んだ。
素より無銭旅行の事ゆゑ、出先で非常な困難や不自由を覚悟せればならぬ。
春出發をすれば困った場合に寺院の檐下に寝ても、野原に一夜を明かしても、薄衣で事は済むので、衣服調度の心配も要らぬが、冬に向ひて出るのは寒さに困るやうな遲疑心も起る。
併しさう前後の事を考へて居ったのでは果てしがない。寧ろ之は精神的の決意を促がすより外はない。
依って『死生立竿頭』の句より思ひ附いて、我が肉體の此世に生れ出た十月十日を記念として、更に十月十日に生れ代るの意義を以て、三十三年十月十日に出立すべく臍を固めた。
そこで荷造りに取かゝったが、此荷造りにも一方ならず考慮を費した。
汽車や俥が意の如く利用し得れば何んの心配も要らぬことだが、旅費の乏しい折は荷物も肩に擔ひ得るだけの量にして置く必要がある。
依つて其の量を十貫目以内と仮定して見たが都合が悪い。かれもこれもと云ふ處から荷物が二倍にも三倍にも殖えてどうしても予定だけにならぬので、余り注意を細かくしたり、物を吝んだりしては極りの附きやうかないから、兎に角出さへずれば如何にかなるだらうと、思ひ切つて大削減を加へた處が、漸く十貫目ばかりのものになった。
其の中には東京に出た常時、祖母が自分を励ます為めに寄越した手紙や和歌や、父母の寫眞などもあつて、是等は大切に奥深く蔵めた。
茲に逸すべからざる大切な二品を取落した終生の恨事がある。其の一品は十三歳の析に副島活版所で洋綴の製本を覺えた時分手製に成った一冊の手帳で、是には親の戒名、死亡年月日、其の他知人の姓名から一切の事柄を書き記した備忘録である。
是は一つには四年間活版所生活の好記念として終生のみならず子孫にも傳へたいと思って居ったので、自分に取っては缺くべからざる貴重品である。
もう一品は横二寸縦一寸位の何等装飾も施さぬ桐の小箱である。
別に價ある品でもないが、自分に取っては是また手帳に譲らぬ貴重の品で、此二品を取急いだ際に取落して了つたことは、今日に至るまで遺憾に思つて居る。
既往に遡るが此小箱の来歴をこの場合に話して置たい。
時は明治十四年、忝なくも明治天皇東北に御巡幸あらせられた砌り邊輙僻地の吾郷里山形にも鳳輦を枉げさせられ、庶民は大君の恵みの雨に霑うたのであつた。
常時の県令は名高い三島通庸氏である。其の折り行在所に給仕が入用である處から香澄學校に其の選定方を命ぜられた。
三人ほど選ばれた中に自分も加へられた。其の時が十二歳であつた。
祖母はこの選に當つたのを此上なく欣んで、出仕に就ての心得やら注意やらを諄々と説き、粗忽の振舞ひなどをして他人に嗤はれなといと厳かに言ひ聞かされた。
自分は子供心に嬉しいやうな怖いやうな恥かしいやうな気がした。
行在所は県庁の近くで、御座所を始め立派な部屋の数々に、ただ膽を抜かれ事ごとにまごついた。
或時県令さんが「他書類を持つて往けつ」と命ぜられたが届け先か分らない。
聞き直したりすると夫れこそ大変、落雷の虞れがあるから其のまゝ書類を手にして、好い加減の部屋に景び込んだ處が、中に一人の威厳の中に温呼たる風貌を備へた肥満した貴人が寛濶に椅子に倚って居られた。
其の何人なるかは知る由もなく、右の言類をテーブルの前に差出した處が、夫れをちよっと見られて「此書類は予の處ぢやない。此廊下を出て右へ曲って幾つ目の部屋に持つて往けよ」と言葉静かに教へられ、再び右の書類を持って引き退らうとすると、テーブルの上に載せてあつた桐の小箱を取られて「是をお前に遣はす」とて差出された。
自分は何んの意識もなく、たゝ有難く嬉しく心得て御挨拶もせずに押裁いて引退り其の通りに書類を運んで、夫れから掛の役人に右の小箱を貰った話をして「何んと言ふお方か」と尋ねた處が、何んぞ圖らん他お方は有栖川宮熾仁親王殿下であらせられた事が判った。
幼な心にも身に余る光栄に感激して家に持ち婦って此話をして一同歓喜したのであつた。他小箱の中には、梅花の形をした香が五つ六つ残って居った。
夫れを燻じて見ると、何んとも得知れぬ優雅な香々がして一入の有難さ記感じたのであった。
斯かる来歴ある品ゆゑ、郷里を出る時にも肌身離さず所持して居った。
星霜二十年の久しきを経て尚且幾分の香りを留めて居つたのである。
夫れを荷造りの際に取落して了って、永久にこの大切な記念品を失ったのであった。
今でも焼失した参謀本部前を電車などで通過する際、仰いで故宮殿下の御銅像を拝するごとに常時の事どもを追懐すると同時に右の小箱を思ぴ出し、感慨の念轉た切なるものがある。
前のは遺失であるが、序に尚自分と離るべからざる二品があったが、是は遺憾ながら手放すことの已むなきに立ち到った。
其の品と云ふのは親から譲られた粟田ロ國吉(或は来)の細身の短刀(二條の樋刻あり)と、もう一口は一竿子國綱(或は三代の作)の小刀の二品である。
此唯一の遺物を、苦學時代に纏まつた金の入用が出来て十数金の為に人手に渡る果敢なき運命となった。
此唯一の親の記念物は、死生も分たぬ旅に、親の寫眞や戒名と共に肌身を離すことの出来ぬ品ゆゑ、荷造りの際に人手に渡した自分の腑甲斐なさを悔い、悄然稍々久しうしたのであった。
西の方に遠く旅するのは今度で二回目だが、旅馴れないので豫め行程を定めることは出来ない。
それ故にあてど無しに神戸までの切符を買った。
荷物としては一切を一括した柳行李一個、人間が金剛不壊の意思を以て事に當るときは、人力天に克つてふ語に依つて激励されたのと、今一つは出發に際して不圖何かの書物で散見レたのであるが、夫れは昔釈迦如来が王城を脱して信行苦行をした時分に阿羅漢にむかつて、佛を目前に見せて呉れと請うた。
阿羅漢之を諾して直下に悪鬼と化し、大口を開いて火焔を吐いて曰く「此ロの中に投ぜよ、然らんには爾の望む佛を目前見ることが出来よう」と。
茲に於て釈迦は佛見たさに一切の思慮を擲つて悪鬼の口中に飛び込んだ。
すると今度怖ろしき悪鬼羅刹のロは忽然蓮華と化して釈迦は此蓮華の座に安坐することを得た。
釈迦は「佛は何處ぞ」と問ふた處が悪鬼は「爾即ち佛なり」と笞へたと云ふ事である。此譚は素より比喩であるが心實の上から考へれば真理なることを信じた。
此比喩が原動力となって、あてどもなき遠国の旅路に飛び込むべく決心したのであるが、果して此暗黒の旅が白蓮の安楽境と変ずるや否やは知らざれども、彼此慮を断絶してまっしぐらに飛び込んだのである。
帰来果レて此旅行が蓮華の浮上に変ずるや否やは章を追うて述べる積りである。
一體此旅行は利害から打算しても、計画としても成つてゐない。
為めに何人に話をしてを、夫れは結構だと言うて賛成して呉れる筈がない。
然るに卓見なる齋藤壽雄先生のみは、快諾して下さったのであるから、自分も大いに安心して、悪鬼のロに飛び込むべく午後の八時、新橋から三等列車に飛び込んだのであった。時に秋の初めの事とて、何んとなくうら淋しさを覺ゆるが常、搗て加へて永年住み馴れし東京に暫しの別れを告ぐることゝて、一層の感慨に打たれ車窓より右顧左眄、悲しむでもなく、喜ぶでもなき一種不可思議の涙を、ハソケチに拭うて、じりと窓際に凭つて、此第二の故郷なる東京と名残りを惜しんだが、吾身は人生の解決と藝道の帰趨とを得ざれば、再び帰るまじと決心しての鹿島立ちゆゑ、心弱くて叶はじと気を取り直した。車中の人となって間もなく機関車の煤煙が眼中に入ってどうしてもとれない。擦れば擦るほど痛みは増し、涙は止め途なく流れて如何とも詮術がない。
堪へたえて国府頻津まで辛捧したが余りの堪へ難さに醫師の診療を乞ふべく下車するの已むなきに立ち到った。
午後十時頃下車して片眼を蔽ひつゝ停車場の前通りを往くと、旅館の番頭體の男が附き纒うて頻りにお這入りなさいと勤める。
自分は何んの思慮もなく、勤めらるゝまゝに旅館に上り込んだ。
處が二階の立派やかなる部屋に案内された。眼の痛さに醫師を尋れる積もりで下車したのに、番頭の勤めに任せて旅信の客となると云ふのは、何んの譯やら自分にも頓と分らなかった。
女中からお泊まりですかと訊かれ、醫師を尋ねて図らず此家に来た事を話した。
女中は委細飲込み顔に引退った。暫くすると立派な膳部か運ばれた。自分は別に空腹でもないが斷はることも出来ず眼を擦りすり箸をとって居ると、醫師は生噌不在でお気の毒さまとのこと、醫師が不在であるとすれば結局飯の喰ひ損、顔を洗って見たらどうですかとの女中の注意に、洗面所で顔を洗った處が、どう云ふ機会か煤煙が取れ、痛みも拭ふが如く去った。
是ならば何も醫師にかゝるまでもないまあ好ったと喜びながら何心なく傍の張出を見ると「宿料最低一圓、上等三圓」と云ふ高價な宿料が掲示してある。
一驚を喫して座敷に引返へし一體自分の懐中を考へた。
神戸までの汽車賃を差引けばほんの僅かの持合せしかない。若し斯様な處に愚圖愚圖して居ったら夫れこそ大変、嚢底空虚の悲境に陥らぬとも限らない。
危しあやうしと警戒心を起して、次の下り列車を尋ねた處が、夜牛十二時発車であるとのことで夫れに乗り継ぐことにした。
食はなくても宜かった食事に八十銭と云ふ自分の身には驚くべき高い支払ひをした。
茲で今更ながら自分の余りにの世間の事情に暗いことに呆れる。之が抑々此旅行に於ける第一の失敗であつた。

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