思ひ出多き濱松


汽車中も此旅行が果して幾年かの後ちに安心と希望とをのこす齎して歸り得るやら、或は不幸にし異郷の土と化するやも測られずなど心細い事のみ思ひ績けて居った。
遠州の濱松は山形の舊藩主が此地から國換へになった因みもあり、祖父時代は此地に在住したので祖先の地とてそゞろ懐かしく、斯かる折に此地に立寄って、嘗て祖父母から聞いてゐる濱松なるものを視て置かうと、祖先の地にひかされて濱松に下車することにした。
天龍川を渡る際に胸に浮んだ回顧は天龍川の河上、約三、四里を遡った河畔に阿彌陀寺村と云ふ處がある。
北村に松下と云ふ豪士があって、松下嘉平治の末裔である。
よく祖母の自慢話に「妾の祖先は松下嘉平治の末孫であるからお前も夫れに劣らぬ立派な者になって呉れよ」などと言ひ聽かされた。
今圖らずも天龍川を渡るに當つて亡き祖母の事どもを追懐して河上を眺めて感慨を深うしたのであった。
濱松では大手先の五社山に詣で舊城趾など見物し、其の日の午後三たび車中の人となって西に下り、豫ねて聞き及んでゐる濱名湖を渡り味方ケ原を右に見て風光明媚を賞し、名古屋城の夕映えを望み、大垣を通過する頃よりは冥想に耽りつゝ夢の如く現の如く過ぎ去って、汽車はやがて神戸に著いた。
神戸には、嘗て一つ竃の飯を食ひ合った同郷人の染谷正龍君が、中學の教員を奉職して居るので、布引の瀧手前熊内河畔の下宿屋に訪問し、客分同家に宿泊することにした。
處が翌日から何分にも気分が勝れない。
不眠症に陥った處へ、胃を病んで元気も頓と阻喪して了った。
日一日と容慨が悪くなりゆくので、心ならずもニケ月餘も滞留して静養したのであった。
此間別になす事もなく君の蔵書中より手當り次第書物を抽き出しては読書に耽つた。
此病気も精神さへ鎮まれば自然回復に向ふことゝ信じて居つた。
と云ふのは極端の精神主義にかぶれて居って、原坦山の病惑同源諭などを深く信じてゐる際であったから醫師にもかゝらんで居った。
読書に倦んだ頃には、書物を懐中にして近郊を散策しては、只管に心の欝屈をとり去るべく力めた。
或日尺八と平家物語を懐中にして飄然布引瀧に遊んだ。
夫れから其の東山の某寺院の境内から裏山へ技けてあてどもなく脚を運んだ。
気の進むまゝに一丁二丁と踏み入って石に腰打ちかけ、読書をしたり尺八を吹いたりして、世間の情羈を放れしばし塵外の人となつた。
折柄年齢の頃四十歳位かとしき覚しき一人の織人頭の男が、同じ道を辿り来って突然話をし掛けた。
「君は何處に往かれるか」と問ふた處が「自分は大工を職として居る者であるが、子供の時分から摩耶山を信仰して、一月に一度は必らず參詣を欠いたことがない。今日も是より出かける積りです」と言ふ。
自分は職人風情にも斯かる人生上の信仰を有つてゐる人のあるのは床しき心がけと思ひ、二語三語言話を交ゆるに従って親しみを生じた。
其の時大工の某さんは頻りに摩耶山に同行を勧める。
自分は懐中に管と平家物蔵があるのみで、外に何んの用意もないので一且に辭したが、強つて勤めるので辭する譯にも往かず其のまゝで同行することにした。
此處から摩耶山に登るには裏道から往くので大分迂回をせねばならぬ。
初秋の候ではあるが別に冠り物とてもないので、流汗淋漓あへぎあえぎ山麓に達した。
れより蜿蜒たる十八町の急坂を登り往けば、左右は鬱生せる松杉険はしき山路を挾みて昼尚暗い。
正慶二年赤松圓心北山に寨を築き六波羅勢五萬餘騎を七面の瞼坂に防ぎ破つたのも此急坂あればこそと首肯したのであった。
やがて絶頂に達して神前に禮拝した。
傳へ聞く法燈仙人の開基創建に係り、十一面観世音と釈尊の生母摩耶夫人とを祀れる處だと云ふ。
自分は人生の獄窓と聴道の帥趨に就て安心を得さしめ賜へと祈願を詣めた。
夫れより宿坊に立ち寄って休館した。
遙か彼方の海面を下瞰しつゝ、左方に見ゆるが大阪、白き波頭の彼方遙かに山脈の延々たるは紀泉の山々、右方に帆影の點々たるは須磨明石、前に見ゆるは淡路島山、西は播磨灘、末遠き水の上雲の如く揺げるが如きは南海に属する対岸の巒影ぞとて、絵にも及ばぬ絶景を指呼しつゝ懇切に説明して呉れたので一層の興趣を深うしたのであった。
病痾も略々快癒に赴いた。不圖思ひついたのは、京都の明暗流泰斗樋口孝道氏の事であった。
早速六波羅に往する樋口孝道氏を訪うた。
氏は十四も年長であるが、八年前竹翁先生の門に遊ばれたことがあつて、其の時の交友であるのと、其の後氏が九州に遊歴せられたことを聞き及んでゐる處から、自分の旅行の参考に資せんが為めに氏を訪うたのである。
氏は突然の訪問にも拘にらず先年訪問の時に倍して厚遇して呉れた。
そこで旅行の趣旨を話した處が、氏は頗る賛成の意を表され、「自分も些か旅行の経験もあるから、御参考になる事は何んなりともお話しませう」とて快諾され、滞洛中は心置きなく自宅に泊って居られるやうにと云ふ好意で、同家の厄介になることにした。
滞留中氏は旅行上心得置くべき事や、種々使宜となるべき事どもを懇切に話され、大いに感謝の意一表したのであった。
或夜寝につく前、氏は自分に勤めるに、建仁寺内南西の處に帝釈天の祠がある。
帝釈天は武運を祈る神だから君の其の雄々しい發願を、早朝起き出で祈願に赴いてはどうかと勧められ、其の時は其の好意に餘儀なくせられてさうしませうと約したが、元来自分は神や佛を無視してゐない處でなく、何れかと言へば敬神の念は人一倍あった方である。
併し世の常の敬神家のやうに賽銭を投じて掌を合せて祈願すると云ふ形式は未だ嘗て経験がない。
寝についてまた一問題を惹き起し、冥想は枝から枝と辿り渡って其の尽くる處を知らなかった。
結局寝忘れたと云ふ口實の下に其の好意を無視せざる程度に止め置かうと云ふ方策を執つた。
然るに樋口氏は翌晩も其の翌晩も帝釈天の祈願を勧めるのでもう寝忘れたと云ふ口實も苦策も尽きてとうとう赤裸々に内状した。
比の結果氏と議論を闘はしたのであつた。
自分の論拠は神仏を蔑視はしない。否寧ろ尋常人に勝るとも劣らぬほど敬神の念はある。
併し其の目標たる祠などに掌を合せて拝むやうな、形式などに拘泥する僕でないと云ふやうな趣意で議論を闘はして、大いに氏を遣り込めたかのやうに誇り顔で居つた。
氏の曰ふには「夫れも宜からう。だが何ほど意志の堅固な人でも遂ひには其の形式を尽さねばならぬやうになるものだと自分は思ふ」と言はれたので、議論も水掛論に了はつたが、今になって考へて見れば、矢張り彼は十四年長。先輩なることは否定することが出来ない。
夫れから閑談になって、四方山の談話の末、建仁寺は氏の菩提寺であり、又氏の祖先が建仁寺の再興に尽力されたと云ふ話などもあつた。自分も建仁寺の由来は書物などで観てゐる處から、見物に往つて見たいと言ひ出した處が、氏の曰く「今は幸ひ臘八會の最中だから、夫れを見物旁々往って見よう」と云ふことになって、即時氏に伴はれて禅宗の名刹建仁寺へと赴いた。

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