続、京洛建仁寺の參禅会

役僧の部屋には大阪の富豪藤出傳三郎氏の三男某氏等も来て居られた。
實家で護摩などを焚くので、藤田氏も持て餘し鳥尾将軍に相談した處が、禅ならば融通もあり参禅をやらすが宜いと言はれた處から此寺に来て居るとの事であったが、幾日かの徹宵に疲れ果てゝ、蒼白な顔をして役僧の部屋で息を抜いて居った。
そこで宵に参禅を申込んだ役僧に面會して、是までの疑問を質して、先づ第一に居眠りをすると撲つと云ふ趣意を質した處が、「あれは痛棒と云うて、懈怠を戒める趣意である。併し其の説には、修業者は居眠りの出るのが常然だ。且つ難問題の思案に暮れる餘り、肩が凝るものだ。残酷のやうに見えるか知らんが夫れほど痛いものぢやない。寧ろ心地がよい。肩の凝りが脱れる。言ばば按摩の代りの如きものである。即ち名と用とは表裏を成して居つて、名は懈怠を戒め、用は苦を救ふと云ふ趣意である」
と説明され、よく其の所以が判った。
尚役僧の話に依ると、臘八の大会は、修業者の大試験のやうなもので、八日間一睡もぜすに接心と座禅を続け、且つ接心の問答に及第することを印可と云ふと教へられた。
幾多の小さき道場で勉強した者でも、本山の道場の印可はなかなか容易ではない。昔ならば命がけの仕事だなど親切に語り聞かされ、愈々敬虔と趣味とを深うしたのであった。
夫れから役僧の部屋を辞して再びもとの道場に歸つた處が、前の人々は各自の席に著いて、行ひ澄まして居つた。
も復坐した。斯くして幾回ともなく繰返へすのである。
自分は臘八會の終はる二日前に参加したのであるから、他の専門修業者と違つて、時々役僧の部屋へ往って息を人れるので、他の修行者に比すれば、殆ど慰み同様のものであつたが、自分に取つては、大病の峠を一つ二つ越えた位に骨が折れたのであった。
前に出た隻手の聲の問答の結末を簡略に話せば斯様である。
「聞えぬ」と答へれば、「聞えぬ筈はないから聞いて来い」と言はれる。
今度は「聞えた」と言へば「どんな音が聞えかか」と言はれる。
右と言へば左、左と言へば右、天と言へば地、と外づれて相手にされない。
往くことも還へることも出来ぬ處まで追ひ詰めねば已まぬのである。
之を出るには恐らくは三年や五年の修業では出来るものではない。
澆季の今日、印可の安売で、三年五年で了はる人もあるさうだが、實を言へば千百人中一人の傑出者が、十年も二十年もかゝって出来るのが本當ださうな。
況して見物と素見を兼ねたやうな参禅で知り得べき道理はない。
自分は即ち夫れであったのだ。
僅か二日間の参禅にへとへとに弱って、全然病み上り者のやうになって、樋口氏の宅に歸つた。
氏も頗る喜ばれたのであった。兎に角慰みでも何んでも、此二目問の参禅は、自分生涯を通じて非常に利益であった。
さて樋口氏は、尚此上黙雷禅師を方丈に訪うて、軽易なる訓戒を受けたならば更に叉得る處があらうと思ふから、今から同道しようぢやないかと勧められた。
自分も一段の興味を以て是非御紹介を願ひたいと頼んで、ともに再び建仁寺を訪ふことになった。
其の途次樋口氏の言ふには、一山の管長に面會すろには、普通人はなかなか手数を要する。たとへ高位高官名将名族たりと雖も、権柄づくに面會を需めようものなら片端から拒絶されて了ふ。
鳥尾得庵将軍すら最初訪問の際にけ跳ね附けられた位であるとか、又面會の儀式は、次の間から三拜九拜するのを普通の禮とするなど、種々様々と難づかしい事のみを羅列されたのであつた。
自分は常時まだ片意地の勝った質であったから、先方が實際偉いものか偉くない者かも分らぬ前から三拜九拜するなどと云ふことは恥辱のやうな感じがして二の足を踏んだ。
處が氏は自分の片意地なることを看破いたか、更に言葉を換へて「併し撲が紹介をすれば、建仁寺と樋口家とは切っても切れぬ深い縁故かおるから、極めて手軽に會うて呉れるゆゑ、そんな儀式張ったことや、難づかしい斟酌は要らない。其の上管長は尺八も少々は嗜まれることで、一層面白からうと思ふから旁々此機會を外づさず面會したが宜からう」と云ふ、なかなかさばけた言ひ方であった。
自分も氏の言葉に心解けて、早速方丈を訪れるべく役僧に其の旨を托して取次を乞うた處か、直ぐ様方丈に通された。
禅師の風貌は再昨夜来接心でお目にかゝった時とは打って変って、幾分笑ひを含まれ恰も旦那寺などに懇意な和尚を訪ねたのと少しも異つた様子がない。
年の頃は全国の管長中最年少者であると聞き及んで居つたが、四十路を五つ六つ越したやうに見受けられた。
眼は清く涼しく、痩躯鶴の如き間に温容を備へて居るが、異相や魁偉などの風貌は些も見受けられない。
併し眉宇の間に俊敏の気溢るるばかり、加ふるに接心に於ける威風、端厳一種犯すべからざるものが含まれて居るが、方丈に於ける師は、親しみ頼るべく感ぜられた。
師は樋口氏の紹介の言葉や、自分の挨拶など聞きながら點茶され、自ら茶菓を勧められた。
自分は師の如何に造詣が深いかは測り知ることは出来ぬが、兎にも角にも八日間の不眠不休に、些か屈托の様子もないと云ふ一事だけで度肝を技かれて、自づと敬虔の念が起らずにはゐられなかった。
やがて師はロを開かれて「拙僧も少しは尺八を吹いて見たがなかなか難づかしいものぢやのう」と言はれた。
自分は夫れに答へずただ首肯した、自分は多少質問の腹案もなかったのでもないが、應接の禮に馴れぬ處から、種々様々と夫れ等を顧慮して、質問の方略も消散したのであった。
談話の緒を失ったので、語を変じて、「再咋夜来接心會にお邪魔したのは古来諸芸術家などの禅に參したことを書物などで散見してりる處から、樋口氏を煩はして御厄介に預った次第……」と述べた處、師は是に對して何んとも答へす唯薄気味悪く、軽く笑ひを合まれたのみである。
何んと云ふ無言の言葉であらう。此無言の言葉は星霜十七年記過ぎた今日、今尚其の無言の言葉を有難く判読しつゝ味つてゐる。
此無言の言葉に就で少し位蛇足の註を加へられぬこともないが、却って尊き無言の言葉に傷をつける虞があるから言ふまい。
強ひて言へば恰も痴人が月を眺めて憶測と忖度を逞うするやうなものであらう。
そんな譯でどうにも取りつき端がない。そこで今度は儒教の『誠』の一字を取出して「誠は如何にして得らるゝか」と問うた處が、師は直下に「誠は自己の所有ぢや、他人から享くるものぢそない」と秋霜烈日の如く一言にして喝破された。
また取りつき端記失った。
其處で第二の點茶は勤められた。詮方なしに菓子を食べた。此場樋口氏が促んとか話のばつを合はして呉れるかと氏を顧みたが、氏も自分の間の悪い取りつき端のない手持気沙汰の體を取り繕ふやうな様子はなく、何處を風が吹くかと言ったやうに茶を啜りながち床の問の幅を眺めたり、眉間の額を眺めたり、或は庭園に眼を転じて、閑雅幽邃なる趣を賞翫したりして、我不關焉の態度を執ってゐる。
禅師の方は此有言の言葉を放つたきり、何事も言はず、静かに笑みを含みつゝ自分を凝視して居られる。
茲に於て自分はニノ矢にも失敗して最早やけ糞になって、窮鼠却咬猫の態度に出て此方も無言と極めた。
つまり禅師はどうするだらうと云ふ一つの抜道に外ならぬのである。此道を死守した。暫くすると、禅師は物柔らかに而も突如と、今までの問ひなどには全然無關係の如くに「萬の物と萬の事相に表裏のあることをよく味ひなさい」の一言を賜った。
此一語に如何なる深甚の意味を含まれてゐるかは咄嗟のことで分らなかったが、兎に角其の威厳と親レみとの感に打たれて、有難く心得、無言のまゝ頭を低げて謹んで感謝の意を表した。
・・・師より享けた以上三つの教訓は、自分終生を通じて、滾々として盡きざる泉の如く思ひ、深く深く肝に銘じて有難く思っている。
爾来今日に至る十七年間、他三ケ條の教へに、枝には枝を生じて花が咲き、根は深く廣くはびこりつゝあるのである。
實を結んだとは無論言へないが枝が殖え、葉が繁茂レ、漸次に成長しつゝある事だけは自分の口から斷言することを憚らない。
他一事を追憶するごとに、自づと無形の三拜九拜をせずには居られない。
かくて閑談の後ち師の許を辭して、樋口氏とともに氏の寓に歸つた。
歸宅後氏は此事に就い一語をも發しない。
自分も紹介の謝辭以外には此際何事も言はなかった。
言はないのは、恐らくは無言の深きふかき禮であったかも知れない。

京洛建仁寺の參禅会終わり

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