厳島にて滞在(前編)

樋口家には彼これ数日間滞在した。
此間同氏より行く先々の紹介状やら名刺やら数葉渡され、叉何呉れとなき赤心こめての心添へもあつたので、氏の好意を厚く謝し、併せて家人の経遇をも謝し、床しき京都を後にして神戸に歸つた。
神戸に歸つてから、身體も快復し、建仁寺以来元気もついたので、まかり間違へば餘所の門に立つ決心をして懐かしき神戸を後にした。
歌曲に名高き『松風村雨』の遺蹟や関守の夢驚かす須磨浦、梁川星厳の『最好舞兒磯上望。淡山如髻鏡中明』と吟みし舞子濱、柿本人丸の『島がくれゆく舟をしぞ思ふ』の國風に名高き明石浦の絶景も早や過ぎて、姫路に下車した。
姫路に入るや、先づ五層の天守閣屹然半空に聳ゆる有名な白鷺城を見、二刀流の剣士宮本武蔵が妖狐を退治せし昔を偲びて、市中を見物した。
岡山に著くや、聞き及ぶ日本三公園の一つなる後楽園を見た。
後楽園は旭川を隔てゝ金烏城と相對し園中四ケ所の池沼を穿つ。
一亭一樹眺望各趣きが変つて居り、仙鶴悠々池畔に逍遙するなど、一つとして佳ならざるなき光景に接した。
廣島に立寄る前に宮島に下車し厳島に赴いた。
厳島は日本三景の一つとして往昔よ人口に膾炙せられた處で、而も其の風光が他に卓絶せるはもとより言ふを待たない。
島は周囲七里三十二町、中央に彌山高く聳え岩船の山脈延々として西南に連る。
島をめぐりて七浦あり。厳島神社は厳島市街の西にありて一箇の大鳥居は海中に高く聳え、長き廻廊は海水に其の美しき影を映し、其の風景の美なる眞に一幅の画に似たる絶景に、ただもう恍惚として嘆賞措かなかったのであった。
本殿拜殿社殿相建り、廻廊屈曲又屈曲、百四十八間の長きにわたり、此廻廊楯間の古書を鑑賞し、千畳敷に登りて、秀吉が征韓の昔を偲び、紅葉谷に入り楓樹桜樹の點綴せられたる間を渓流美しく石に激して走り、旅亭其の間に點在して鹿の群の遊客を狙うて餌を求むる奇観に興を催した。
翌日、豫ねて樋口氏より紹介状を得たる近郷の或寺院の若主人某を訪問したところ、某は喜んで引見し、自分の旅宿などを訊いて、「明日尺八を持って遊びに往く」と云うて歓待した。
其の日は附近の地理談、風俗談などで暇を告げた。
翌日某は約束の如く尺八を携へてやって来た。一緒に吹いたところ、某は暫時稽古を願ひたいと云ひ出した。
一応は辭したが、たつてと云ふことであったので承諾の旨を答へた。
すると、某は「斯様な旅宿に居られるのは費用のかゝることでもあり、實は自分の寺にお迎へをしたいが、自分には両親もあり、また寺方で尺八の稽古などをするのも如何はしいし、貴下も御窮屈の思ひもせらるゝであらうから、幸ひ自分の親戚同様な檀家が廣島市の新町に旅館を営んで居るから、どうか自分の家に居る心持で其の旅館にか引移り下さらぬか。さうすれば自分も廣島に出る用もあり、心置きなく立寄って稽古を受けることが出来るゆゑ、是非御案内したい。宿賃などは決して御心配には及びませぬ」と云ふ勤めであつた。
自分は思ふに、宿賃などは決して御心配に及ばぬとは、何んたる親切な人であらう。
自分は恰も盲亀の浮木に會ひ、轍鮒の水を得たかの如き心地がして、旅は憂ひもの辛いものと昔から言ふが、思ひの外面白いものだ。
他人は與し易いものだと思ひ、今まで暗黒世界であつたのが光明世界に化したやうな気がして、今までの悲観は楽観と変じた。
そこで自分は「實は宮島で是非越年をして見たいと思って、此處に泊ったのであるから、其の後に御厄介になりませう。夫れまでは此宿へお出で下さい」と答へ、茲に相談一決した。
・・・某は其の後も来ては尺八を吹き、酒を飲んだりして、至って無邪気に、磊落に見えるので、自分も親しみを覚え、相互の交情次第に濃くなった。
多分暮れの二十八日と記憶して居るが、あの邊は非常に暖くて先づ関東邊の仲秋の気候に相当するかと思ぱれ、邊りに虫のすだくのが聞ゆるので、どうしても冬とは感ぜられなかった。
遂ひ麗かな天気に遊心を誘はれて、前に注べた厳島の最高峰たる彌山の登攀を試むべく旅屋を出て、島に渡り道筋を尋ねなが彌山に登り初めたのは午後の一時頃であった。
山頂までは二十八町の一筋道で羊腸たる急坂や、平地などの屈曲面白く、ますます詩的の興に酔うて躬の疲れも受えず進んだ。
かくて山頂に近づく頃ほひは、漠々たる密雲群がり起り山頂の坊に達した頃は驟雨ぽつりぽつりと降り初めた。
坊を訪れたが無人の様子で何等の応へもない。
己むなく案内も乞はす坊を過ぎ去りて、奥深くへと登りつゝ進んだ。
奇岩軽怪重畳して其の様譬ふるに物もない。雲はますます濃厚となり、風雨も加はつて来た。
夫れにもめげす勇を鼓して山頂に進めば、高さ三丈周囲四丈もあらんかと思しき巨岩がある。之を頂出石と云ふ。
伝えへ聞く弘法大師が唐より帰朝の後ち此山を開き、彌山の名も之等より起り、護摩修法の霊火今に傳はると云ふ事だが、一世の高僧も斯かる處で低徊去る能はざるの感があつたのであらうなど懐ひを千古に走せつゝ、之より下りて石の洞門を過ぎ、小さき木橋を渡れば、毘沙門堂址あり次に鐘楼がある。
鐘の銘に「伊都岐島彌山水精寺奉施入治承元年丁酉二月日建立聖人永意施主右大将宗盛」とあるを見、平家栄華の昔を偲び、三鬼御堂。求聞持堂奥院(空海を祀る彌山神社を拜し、瞼を放てば山も海も脚下に在り、風に払はるゝ雲の絶え間に、盆石でも見るが如き島々の點綴して隠見する様、名状すべからず。
どうしても實境に接して居るとは思はれず茫として夢裡に在るが如き感がある。
由来、宮島を見物して彌山を見ずんば宮島の景色を語るに足らすと聞いて居つたが、眞に然りだが、其の語の内には何れ快晴の麗かな日に、油の如き海に點在する島々を指呼の間に見る景色を言ふのであらう。
自分の親しく観た處の彌山は、之に反して恰も雲の流れに震撼するかと疑はれ、世に有り触れた景色よりは却って、雲の彌山が得も言はれぬ風情があると云ふ感を深うしたのであつた。
斯くする間に雨は追いおい強く加はるので、再び坊に引返へしたところ、此時は既に坊の者も帰つて居つた。
澁茶を啜りながら山の歴史などを聞きつゝ休息したが、雨の烈しくならぬ間にと急遽下山の途に就いた。麓に達した頃は最早雨は名残なく霽れ渡ってすがすがしき快晴となつた。
彌山を顧望すれば霊烟模糊として山容を見ることが出来なかった。
自分の彌山見物は生憎であつたと云ふ人があるかも知れぬが、自分に取っては、有りふれた晴天よりは寧ろあの豪壮なる意味を合む趣味深き景色に親しく接したのを仕合せとする處であった。
厳島神社の祭禮は、年越祭、管絃祭、延年祭等其の主なるものであるとの事だが、自分の際會したのは、大晦日の更衣の祭禮であつた。由来厳島町では古式の極めて不可思議な祭禮が執行される處である。さて更衣祭の当日になると、全島が居住者中より、若きは十五歳位から老いたるは六十歳位までの男子が壮丁となつて手に手に短きは三尺位より、長きはニ丈もあらんかと思しき松明を捧げて、約二時間ばかり浜辺を右往左往に入り乱れて練り歩くのである。遠く之を望めば、炎々たる星の光かと怪まれ、其の壮観謂はん方ない。
夫れが済むと其の松明の火が両方に散乱して堆高くなつてゐる上を信者が走り渡るのであるが、一向火傷をする模様もないのは、多分神様の利益で火傷をせぬとか云ふ信仰を以て渡るからであらう。
此故實は失念したが、何んでも戦に縁ある古来よりの慣習であるさうな。
尚其の夜厳島神社御神體の更衣式があり、一年一度の開帳の事ゆゑ、是非一見するが宜いと勧められ、社前に往つて見ると早や数知れぬ善男善女が扉の前に跪座して、開帳の期を待つてゐるので、自分も其の中に加はつた。
だんだん夜の更けゆくに連れ、寒気は犇々と身に期を待つばかりであるが、好奇心に駆られて、只管御神體を拜しようと式の時刻を待ちわびた。
やがて刻限になると、威めしい装束を著けた神官が現はれたかと思ふと、ぎーツと云ふ開扉の音が聞えた。
伸び上って前方を見たが、御開帳とは云ひながら、次の間から見ることゆゑ、御神體の見える處ではなく、たゝ僅かに御衣裳の幾部分が微かにほの見えたのであつた。
是が所謂更衣と云ふ厳めしい儀式かと思った。
聞く所に依れば、此女神の御衣裳は、京都の西陣に於て機織職工が斎戒沐浴して織り出す所の綾錦であるさうだが、更衣の済んだ前年の衣裳は寸断されて守袋に仕立てられ多くの信者に頒冥されると云ふ事であった。
明くれば明治三十四年の元旦となり、茲に馬齢三十二歳を迎へた。
三ケ日を過ぎると、例の僧某が早速訪ねて来て「豫ねて約束の通り廣島市新町の某旅館に移らぬか」と勤められ、自分は其の好意を謝してともども廣島に赴き、右の旅館に投宿することゝなり裏二階の一室に陣取つた。
某は例に依って且り飲み且つ食ひ、元気よく談じ、某と旅館の関係が、檀家以上の、恰も極く近い親族であるかのやうに話すので、大いに心を安んじ、彼に微塵も虚偽の行為のあらうとは気付かなかつた。
其の後某は毎日のやうにやって来ては、何時か尺八の稽古などはそつち除けにして、酒食を命じては牛飲馬食を恣にした。
世間馴れぬ自分の眼には、念珠などをつま繰って殊勝らしくしてゐる曾侶よりは寧ろ面白い人、洒脱な入のやうに映って、別に気にもかけずに居った。

竹友社MENU

竹友社案内

〒160-0008
東京都新宿区三栄町三
TEL:03-3341-5755
e-mail:jimu@chikuyusha.jp