厳島にて滞在 (後編)

彼これ三、四日経つてからの事、宿の主婦は改まって自分に向ひ「あの坊さんは貴方豫ねて御懇意なのでがんすか念の為め伺って置きまひやう」と言ふ、・・自分は何気なしに「否、左ほど懇意と云ふ間柄でもない。斯様々々の次第で此家に御厄介になる事になったのだ」と答へた。
處が主婦は「まあ」とばかり驚きの眼を瞠はりつゝ膝を進め「それでは貴方さんは何も知んなされんのでがんひやうが、あれはの、之までにも隨分の極道者で、はあ何べんも新聞にも出た人でがんすで、迚も迚も手におふ人ぢやアがんへん。わしん處でも貸しが二、三百圓をがんすがさいさいどう云ふてもとんと埓が明きまへん。
まあ泣寝入りの形でがんす。あの坊さんが貴下の勘定を引受けるとは思ひも寄らぬ事、わしもどうやら變に思ひました。
結局わしん處では貴下さんにお彿ひを願はんなりまへん。貴下さんも油斷しんさるといけまへんで」と云ふ注意であった。
之を聞いて自分は色を變ずるばかりに驚いた。
さてはまた失敗したか。魔障々々と心のうちに連呼したのであった。
彼これしてゐる聞に、某がまたやって来て、洒を命じ、肴を命じては、得々として自分に少しも隔りを見せぬ様子は、是までと變りはないが、宿の主婦から一伍一什を聞いて裏面の事情を知った自分の眼には如何に悪魔に見えたであらう。
如何に夜叉に感じたであろう。夫れは読者の想像に任さう。
だが、此場合主婦の言うた事を素破抜くも如何かと思つた。
併し此まゝに過ぎれば、飲み倒し食ひ倒しをされて、嚢底忽ち空虚となるの悲境に陥るのである。
今は一刻も猶豫してゐる場合でないと思つた。
すると某は「此先きに遊廓があるから其處に御案内しませぅ。旅の徒然に一晩位お交際も宜からう』と言ひ出した。
自分は其の言葉が一層圖々しく感じられた。
宿の支払ひを自分にさせ其の上ならず遊興費をも自分に支辨させやうと云ふ目論見でおらう。
さう云ふ了簡なら一つ彼の術中に陥ちたやうに見せかけて彼の計略の裏をかいてやらう。
彼が如何にするか。物は試しだ。處世學の實驗として同行して見ようと、咄嗟の間に決意した。
某は自分の不同意でない様子を見るや、去らばとばかり立ち上つて主婦に何事か囁くと、主婦はロを尖らし、顔を赧めて何事か厳談する様子つた。
其の事は先刻主婦から彼の内幕を聞き及んでゐるので、問はずして對話の内容を判断するに難からぬのである。
内容を知ってゐるだけに、自分は近寄ることを遠慮して路次から静かに其の容子を見物しながら其の成行を視て居つた。
するとだんだん大胆になって、金がどうだとか、詐りだとか、虚だとか云ふ言葉が切れぎれに主婦のロから出るのが聞える。
果ては某も自暴自棄になったものと見え、自分をさしまねいて、主婦を押し除けるやうにして突如戸外に飛び出した。
自分は主婦に目禮して其の後に続いた。
十二、三町往ったかと思ふと、とある川邊の料理店に登つた。
すると座敷に年輩四十歳位と思しき、身に洋服を著けた肥満した紳士風の男が胡坐をかいて待つて居つた。
二人の入り来るを見るや「よう遅かつたな」と云ふ掛聲を僧に浴びせた。
察するに某と彼とは其處に會すべく豫ねて牒し合はせたものであろう。
彼の風采は一見紳士風に見えるが、併し容貌から眼の配りに下劣な性格を表はしてゐるのを見て、此奴共謀だなと合點した。
此處は寸時も油断は出来ぬ。・・虎穴の探検だ。
彼等は自分を此處におびき寄せて、何を語るのであらうと心中少しも油断しなかつた。
と云ふのもつまり主婦から某の内幕を聞いたからこそ斯く気がついたので、若し主婦の注意かなかつたならば、彼を土地の一流の紳士と誤認し、如何なる憂き目に逢つたかも知れない。
やがて彼等は酒肴を命じで杯り取り交はしながら、彼は自分をじろじろ見ながら僧に向つて、此間娘を東京の學校に入れる為めに上京したが、途中汽車中で先年求めた三百圓の金時計を盗られたとか、會社の株をどうしたとか、資本金がどうだの、何萬圓儲けたとか損をしたとか、虚か眞か判らぬ事を並べた末、賓の山に入りながら資本金が無い為めに一攫千金の利が得られぬのは返へすがえすも残念だと云ふのが談話の帰結で、自分に乗気になるやうに仕掛けたが、自分が馬耳東風と聞き流してゐるので、彼等の目算がらりと外づれて拍子抜けの體であつた。
某は迚も話にならずと思つたか、右の男に眼まぜをして「是から某楼に案内をするから之で別れよう」と言つて自分を促し立つた。
察するに某は紳士風の男と共謀して、利を以て自分を釣らん方略であったらう。
自分が長旅をするのを知ってゐるので、相応に纏まった金を持つてゐるものと誤認したのであらう。
笑止干萬の話だ。
かくて二人は右の料理店を出て、夕刻某楼に押し上った。
某は例の慣用手段で、同楼とは深い馴染のやうに見せかけ、いと横風に酒肴を命じ、芸妓や雛妓なども数名招んだ。自分は酒は一滴も飲めぬが、感興を催したやうな風に見せかけ、心中彼の悪辣手段に注意して居った。
某は尺八を取出して、芸妓相手に端唄などを合奏して誇り顔をしてゐるうちはまだ宜かったが、酔ひの廻るに連れてやれ自分の親戚に何十萬の財産家かあるとか、やれ何かどうしたとか、苟もも男子の口にするを恥づべきことを恥とも思はずロ走って愈々其の腸の汚穢を暴露し始めた。
自分は午前の二時頃までつきあつたが其の余りに見苦しさに堪へ兼て「気分が悪いから」と詐はってそこそこにして旅館に帰った。
後に残った彼は、恐らく徹宵飲み明かしたであらう。
翌朝自分に属する支払ひの勘定を命じた處、主婦さんは「某の飲食費も貴下さんの客として、貴下から、御勘定を戴かんことには外に取る途はがんへん。
昨晩お出掛けの節も、實は其の勘定の事に就て、彼これとあの通り喧嘩をしたのでがんす」と云ふ。
成程、此位の薄手で災厄か済んだのは主婦の注意に依ることゆへ、其の禮心で、某の勘定をも一緒にすることにした。
古い事ではあるが、其の時の事は深く肝に銘じたものと見え、今尚金高を記憶してゐるが、八円何十銭取られたと學えてゐる。
最旱嚢中余す處幾ばくもないので、此上は直ちに九州に赴き、虚無僧となって遍歴するの外ないと決心し、坊さんが来ては何かと故障が出ぬとも限らず、最早悪魔の正體も見届けた上は一刻も早くと、荷造りもそこそこして、今しも出立せんとする處に面会の客が来たとて女中が知らせて来た。
さても不思議自分に百會人が此土地にあるべき筈かないがと、小首を傾けても想像がつかない。
兎に角通して呉れと命ずると、入り違ひに年輩二十六、七歳位の男が突如入って来て「僕はお目にかゝったことはないが、自分の兄はお目にかゝったことがあるさうで、實は西京の樋口氏より貴下が此處に居られると云ふ事が新年状に書き添へてあったので、直ぐ様お訪ねした譯です」と言うて初対面の挨拶をされた。
是なん小曾根録造氏であったのだ。
急場の事ではあるが、第二の故郷たる東京の人に會った嬉しさに、氏の勤めるに任せてほど遠からぬ氏の寓居に同伴した。もう二分と違へば行き違ひになる處であったと、其の寄寓を喜びながら一通り旅行の趣意を話したところ、夫れは至極面白からう。
併し別にお急ぎの旅でもないことゆゑ暫時此地に足をとヾめて稽古でもされたらどうかと、再三再四の勤めであったが、自分は九州行と決心した上は矢も楯も堪らず。
其の勤かすべからざるものあるを見て取った氏は、然らば永くはお留めしない。
依って、『鹿の遠音』『松竹梅』等二、三曲譜を書いて呉れと云ふ事であったので、辭する譯にもゆかず、氏の乞ひを容れて譜を書くことにした。
夫れから合ひ開には土地の弾琴家の處や、點茶や活花の仲開にも同行して遊びに往つたりなどした。氏は譜の淨寫料として幾ばくかの包み金を呉れ、請所を案内して呉たが、自分は何んとはなしに、此地に怖れを抱き、二、三泊の後馬関(今の下関)を指して出立した。

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