下關に向ふ (2)

まるで幽霊でも立ち去つたかのやうな気がした。
今となつては起き出すのも危ないし、其のまゝにて置くも危ないやうな気がしたが、油断をせぬが肝腎と、尺八をぐつと握り締めて居った。
其の後は何んの音もせで森閑として聞ゆるものは鼠の暴れ廻る音のみ。
時もだんだん過ぎゆくに連れて気も心も緩み果てゝ、何時眠るともかく寝入って了った。
翌朝眼を覺ますや否や前夜の事を考へた。
一人の曲者が確かに枕頭に立ったに違ひない。
否それとも夢であったかしらと自分を疑ひつつ、不圖ランプを凝視すると、果然ラソプの笠や其の邊に痰を吐きつけた痕跡かある。
さすれば夢ではない。夢でないとすれば抑々何者で、叉何か為めに寝込みに踏み込んだのであらうかと、不審晴れやらず、思案にくれつつ、例の如く小河に下って、顔を洗ってゐると、前方から一人の男がやつて来た。
羽織も着ずいとも見そぼらしい風體ではあるが、年輩は四十前後でもあらうか、品格もあり、官吏上りの浮浪者らしく思はれた。
右の男は自分に近づくや、笑顔を作り、いと慇懃に、「貴下が川瀬さんですか」と云ふ。
「そうだ」と笞へたところ、「昨夜は圖らず酩酊をして居つた為めに大いに失禮をしました」と云ふ。
これで初めて前夜の曲者の正體が判った。
さて此男の語るところに依れば、篠原某と云ふ伊豫の國の士族で、兄弟は相応な生計をして居って、身分も卑しからん者であるが、十八年来家を出で、虚無僧となつて各地を遍歴してゐるとのことで、日本國中足跡到らざる處なしと豪語した。
試みに我が郷里山形の地理に就て質問すると、響きの物に感するが如く明確に答へた。
自分は更に、抑々十八年の久しき間、何を目的に漂浪して居るかと問へば、性来酒を嗜み、酒を飲みたさに斯くの始末と頭を掻いた、彼はどの邊を勤財すれば儲かるとか、酒が飲めるとか云ふ事のみを語って、藝に就ての話は一向語らなかつた。
彼の曰く、自分は此附近の地を徘徊しては酒を飲み酔へば此堂に寝泊りをするが例で、前夜も酒気を帯びて自分の巣とも云ふべき此大師堂に来たところが、貴下が寝てゐるので、恰も我家を占領されたかの如く感じて、腹立ち紛れにランプを吹き消したが、別に他意あるにあらずと陳謝し自分は、それはお気の毒であったと慰めたところ、彼は只管陳謝を重ねた。
世間には妙な人物もあるものよと思ひ、此見聞に依って、急に天地が広くなったかのやうに、何んとなく広々としたやうな心地がした。
最後に彼は「今日は対岸の門司あたりを、歩く積もりだから、また重ねて會はう」の一語を遺して飄然と立ち去つた。
連日の無聊に堪へ兼ねて、名にしあふ硯の海の濱邊づたひに、一葦の水を隔つる門司が関や岸柳島を眺めたり、或時は彦島や檀の浦を徘徊し、赤間宮を参拝して安徳帝の御陵、平家七墓を展して、平家没落の昔を偲びなどして、日を暮しておるうち、不圖思ひ俘んだのは明治の初年に、福沢諭吉翁、前島密翁と並び称された瓜生寅翁が、此町に瓜生商會を経営して、貿易業に従事して居らるゝことを思ひ出した。
瓜生翁は豫ねて竹翁先生の門人で上原先生とは竹友であられるので、お訪ねして見ようと云ふ気になったが、突然驚かすのも如何と思ひ、作禮として面會したき由を申込んだ。
ところが翁は折返へしに使ひを大師堂に下さって、今夜琴曲の師匠を聘して待って居るから是非来るやうにと云ふ返事を得た。
取りつく島とてもなき孤島に在るが如き思ひをしてゐる自分に取つては、その喜びも一方ならず、指定された時間に一分の差もなくお訪ねした。
ところが翁は初対面なるにも拘はらず、些かの隔りもなく、非常に快く會うて呉れて、曰はれるには「私は暫く尺八を手にせぬが、尺八のみならす音楽に就ては、明治初年以来、色々とたづさはったこともあった、まあ日本で音楽を教育の科目に入れることの最初の発議者は私ぢや。
即ち明治初年に此事を時の政府に建白をしたものである」とて、建白書の草稿などを示され、又音楽學校の前身たる音楽取調所を設置さるゝ際にも関係されて居られたことなどの話や、支那の音律に就て取調べられたことなど、話はそれからそれと盡きるところを知らない。
さすがは日本三學者の一人であり、且つ漢學の造詣も深くあらるゝだけに、其の知識の該博なるには、たヾ敬服の外はなかった。
そのうち琴曲の師匠田中梅子老人が見えて『残月』『ゆき』などを合奏したところ、翁は肯綮に篏った評を下されて曲の由来などか説かれた。
就中『ゆき』の大石良雄の作歌であると云ふ事から『雪も花もはらへば清き袂かな』此一句は大石でなければ咏み得ぬ文句だとて『ゆき』に就て特に意味深き説明を承はつた。
其の夜は深更に及んでお暇をした。
ところが翌日使ひの者に土産物などを持たせて「今夜また遊びに来るやうに」と云ふ傅言があつたので、無遠慮とは思ひながら翌夜またお伺ひした。
矢張り時刻は前日の時刻と一刻も這へなかった。
此日は再會のことゝて、前夜にもまして話も打ち解けて趣味の津々たるものがあった。
話の半ば、翁は突然「君は感心だ」と恰も子供でも褒めるやうに言ひ放たれたので自分は意外に思ひ、「どう云ふ事をお褒めに預つたのか一向解かりませぬ」と率直に答へたところが、翁は言葉を改められて「今時武者修業的の修行を企てゝ、優れた者には習ひ劣つた者には教へると云ふ志望の頗る栽意を得たのを感心する。
叉一つには私が晋楽に就て明治初年の建白や、尺八の故實や、文藝に關して是まで種々な尺八吹きや藝術家と自称する者に話して聞かせたことはあるがで君位耳を傾けて呉れた人はなかった。之を非常に多とするのである。
それが為めに今日またまた君を迎へたわけである」と仰せられて更に語を次ぎ「私は老人の事でもあるから、君の後學になるやうな事は話して置きたい。覺えて置いて貰ひたい。傅へて貰ひたい。はぐくんで貰ひたい。今一つは、昨日も今日も私が通知をした時間に、分秒も違はず来て呉れた。それ等を感服したのである」と言ふて、時間励行に就で次の如き逸話を話された。
翁は明治初年の欧洲思想の先覺者であられるので、時間励行の観念の非常に強い人である。
當時御自分の商店にも西洋人を四、五名使つで居られたさうである。翁は常に市の舊慣として約束の時間を違へるのを慨歎されて居つた。
或時土地の紳士紳商数十名を某料理店に招待されたごとがあつて午後の五時と云ふ通知を發せられた。
當日主人としての翁は、五時前に會場に赴かれて、待ち佗びて居られるにも拘はらず、五時が五時半になっても、さては六時になっても、一人も見えない。
そこで翁は一時憤然としたが、此舊慣を革めるやうに覺醒をするのも世に益があらうと思ひつかれて、亭主を招び「私は今から歸宅するが、料理代は全部拂ふ。若し客が来たならば、瓜生は約束の時間が過ぎたからとて既に歸つで了つたと言う斷つて斯つて呉れ」との一語を遺して立ち歸られた。
やがて六時過ぎになつて、客は例の通りと悠々やって来たところが、料理店は森閑として宴會らしき気振りは更になく、おまけに亭主には斷はられ、何れも一杯の洒にもあやりつず、悄々として引取つたのは傍の見る限も気の毒であつたと云ふ。
併し此事あつて以来、翁の招かるゝ客は皆時間を励行するに至つたと云ふ事である。
これを語られた翁は更に言はれるには「當時数十人の料理を無駄にしたやうだが、國益と云ふ上からら言へば、たとへ数千金を費しても惜しくはない。我ながら善い事をしたと衷心喜んで居る」と語られ、「一體君に會ふ前には、失禮ぢやが尋常一様の尺八吹き、即ち藝人だと實は思って居つた。
ところが時間の確守と云ふことが第一に気に入りだ。
第二に私の建白書に就て非常な趣味を以て聞きもし叉質問もしたことに、其の謬りをさとつたので、今夜重ねて君を招いたのである。
就ては斯道に就て、君に委嘱して置きたい意味で招いたのである」とて、自分に負担し得られない重い事柄を以て負はされた。
其の時自分は赧然として何んの答へもせず、首をうなだれて謝意を表したのであった。
翁は「尚参考までに話して置きたい事も沢山あるから、九州路を廻ったら再び立寄って呉れ、夏暑い間は東京の本宅に往ってゐるから其の方へも尋ねて來るやうに」と、恰も多年の弟子でもあるかのやうに厚遇を受け、嬉しさと希望に充たされて、厚く感謝の辭を述べ、深更に及んで火の気もない無住の大師堂に戻り黎明に至るまで思索を恣にしたのであった。
因みに言ふ。後年東京角筈の翁のお住ひをお訪ねして、福沢翁や前島翁と長崎時代の苦學談などを親しく伺って、裨益するところ尠なからんのであった。
今は故人となられたので、茲に二十年前の回顧談をなすに當ってそヾろ當年の事どもを追懐して感慨の念轉た切なるものがある。
さてあてどもなく未知の山下貞幹節氏を待ち佗びてゐるうち、早くも六日を経過した。六兵衛老には気の毒の思ひが嵩むのみで、若し此まゝ十日以上も過ぎたならば、此上あつかましくお世話になってゐる譯にもいかぬ。何んとか處決せねばなるまいと思ってゐると、恰も好し七日目の夕方、六兵衛老から山下氏が今戻られたと云ふ知らせがあつた。
取るものも取り敢へす赴いて、山下氏と初對面の挨拶を交り換した。
氏は大い喜ばれて「暫く不在をして失禮であったが、最早私に會うた上は、大船に乘った気で御安心下さい。
之から先きは一切の行動を私にお任せなさい」と云ふ、世にも頼母しき話であった。
四方山の話最中に氏の門人二、三名が、氏の戻られたことを聞き傳へて訪ねて來た。
久しく淋し味に閉ぢられて居つた自分は、陽春の季節に出會うたやうな心地がした。
やがて氏は「今日珍らしい物を馳走しよう。
川瀬さんは、鯨の生肉はまだ召上ったことはあるまい」と言ふ。
自分は山國育ちで、鯨のおばちは知ってゐるが生肉は知らない。
其のうち準備も出来て、共々飯の御馳走になつた。
ところが何んとも言へぬ美味であった。
其のわけは長い間麦飯と漬物一色のみで胃腸が涸渇しておるところへ、急に脂肪分多量の食物に有りついたので、美味と言はんよりは寧ろ胃の腑が本能的に吸収するかの如く感じて、最初は味も何も分らん位に旨かつた。
性来物を食つてあの位旨く感じたことはなかった。
ところが豈圖らんや、後に至って驚いたのは、其の鯨の生肉と云ふのは實は牛の腸であったさうな。
それを持つて来た門人は、下關の屠牛場の若者で、役得にせしめた獲物を土産にしたとのことである。
鶏の雑物の旨さは知つてゐるが、牛の雑物の味が變つて旨いと云ふことは、時が時であったからでもあらうが、何んとも譬へん方なき旨さであつた。
恐らく再びあれだけの味は経験し得られぬであらう。
食事が済んで閑談に移つた。
山下氏は、快活に高談四莚を驚かすの風があったが、其の間毫も隔意がないので、初見の人のやうな気かせず、恰も年来の知人の如く、いと心地よく感じた。
見受けるところ、氏は自分より一廻りほどの年長者で、聞けば先年炭鉱業に従事して失敗した揚句、俗界の一切から脱離して、三界無庵の虚無僧となったと云ふことで、當時九州の虚無僧仲間では、羽振りのよい古参者であるさうな。
身體は小柄の方であるが、なかなかの精カ家で、終日勤財に吹き続けても、倦怠の様子がない。却って門人等の方が屁古たれる。
風雨寒暑にも怯げず精勵して息まない熱心家だと云ふことである。
山下氏の元気と一座の賑ひに引換へて、主人の六兵衛老は兎角沈み勝ちに見えるので、不審を抱いて居ったところ、不圖次の間の仏壇に、燈明を點じ線香を薫じて、前には農家にふさはしからぬ縮緬の大座蒲團さへ添へてあるので、話の切れ目を待って其のわけを訊ねると、老人は打ち沈んだ調子で自分に語るにに、「今日は何時ぞやも,お話した尺八を吹いた長男の命日に當るので、心ばかりの供へ物をしたわけで、長男の命日に期せずして貴下方の會されたのも、宿世浅からぬ因縁とでも謂ふのであらう。
就ては今日の團欒を幸ひ本曲を手向けて頂いたら長男も嘸かし地下で喜ぶことでござらうから、先づ貴下から是非一つ手向けの笛を願ひたい」と云ふ懇望であった。
然るに自分は本曲一通りは稽古はしたが、本曲の本領たる佛の回向として吹くことぱ経験がないので、聊か躊躇した。
山下氏も序に自分の技倆を試むべく底意があつたものか頗りに勧め、且つ自分の手にしたことすらない半袈裟まで取り出して、回向には此袈裟を斯様にかけるものぞ、いざとて左の肩にかけて呉れた。
茲に至っては否でも應でも吹かねばならぬ破目となって、意を決して和尚然と座を構へて『霧海?鈴慕』を吹き始めた。
處が普通の場合に本曲を吹く心構へで取りかゝったものゆゑ、位牌や、燈明や、線香などに対して調和がとれない。
為めに譜の一行も進むか進まぬうちに、気息は迫り、流汗淋漓、懊悩困憊を極めた。
 茲に至っては今更よす譯にもゆかず、進まんにも餘りの不調和さに進みようがない。
と云ふものは、平生本曲を吹く心構へは、何んのことはない連管者なり、或は聞者なりと喧嘩腰見たやうな心構へで練習をして来た癖があるので、何んとも始末がつかない。
不圖思ひ浮んだのは、故郷で三虚山先生に就て學んだ常時の奥州流の本曲のことであった。
其の情趣を加味したならば、どうであらうかに想ひ到って、急に趣きと心構へとを換へて取り掛って見たところ、初めての試みではあるが聊か安んすることを得た。
斯くしてどうにか、かうにかばつを合はせてほっと息を吐き、座を退いて自分の回向に對する不経験を一座に謝したのであった。
次に山下氏は、袈裟をかけて、やをら回向の座に著いた。勿體らしく焼香をなし、静かに尺八を取り直して、如何にも物優しく『虚霊』を吹き初めた。
自分のそれとは打っで變って、如何にも回向にふさはしい、香の煙りの縷々として立ち昇るのと別對して、尊き讀経に接するやうな心地がして自づと追悼の涙を禁じ得なかった。
六兵衛老夫妻は頭だに挙げ得ぬ様子であった。
此事あって以来、自分は本曲と云はものに就て、自分の考への及ばざりしことに気がっいた。
今までは本曲を単に楽曲として、技術と云ふ方面からのみ観察して、心術への方面を全く閑却して居ったと云ふことに気がついた。
謡曲なども師匠に就いて、一面りは習得しても、いざ御祝言と云よ場合に、必らず心構へと場席とを調和させる為めに、一苦勞するものではなからうか。此處が學びと應用との岐るゝところで、出鱈目の高砂でも、祝言などに度々出會つてあつかましく唄ふ者は下手でも出鱈目でも肯綮に箝るものだ。

担当者、この項終わり

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