九州路に入る博多一朝軒

斯くて回向了はるや、気ばやの山下氏は自分に向って「撲の為めにお待たせしてお気の毒であった。
就ては明日とも言はず今夜出立して博多の一朝軒舊虚無僧寺に御案内しようと思ふが如何」と言はれる。
自分も最早北地に足をとヾむべき必要もないところから、早達出立する気になって、六兵衛老夫妻には、厚く是までの禮を述べて、山下氏と連れ立って渡船で門司に渡った。
其の頃の門司は、海岸に少しぱかり宿屋などがある位で、寂莫たる一漁村位に感じた。
今日九州の玄關口として殷賑を極むる門司市を見るときは隔世の感がある。
かくて夜の九時頃とも覺ぼしき頃、停車場に著いて、夜行列単に搭じ、車中途中の地理談や、竹界の模様などを聴きつゝある間に、汽車は何時しか博多に著いた。
時は一月中旬、九州には珍らしく寒い年で、例年にない雪降りであった。
山下氏の案内で、雪を冒して一朝軒に赴いた。
抑々此一朝軒といふは、普化宗の四箇の本山、六十四ケ寺の一つである。
明治四年普化宗が廢されて以来、全國の普化寺は何れも敗殘に歸し、貫主は夫れぞれ職を變へて、跡方もなくなって了ったにも拘はらす、此一朝軒だけは、依然として現存し、貫主磯一蝶老人は、齢既に七十に達し、維新前より今日に到るまで普化寺として存續して居る。是には理由がある。舊藩主黒田侯の時分から、葬式には必らず虚無僧が先伴に立って、盤渉調を吹く習慣がある。本堂で読經中も伴奏的に吹奏する。
此吹奏は読經と伴奏をして読經の背景を成して、誠に似合はしいものである。
其の習慣は、一般町家にも行はるゝことになって、普通町家の葬式でか六人位は伴をするし、大きな葬式になると三十大位あることもある。
斯様な習慣がある為めに、此一朝軒のみは、廢宗後近年に至るまで繼續したのであった。貫圭一蝶老人は、昔から多くの虚無僧を世話して居る有徳の人である。
殊に自分が東京から修業の為めに諸国遍歴をするものであるといふ山下氏の紹介に痛く感ぜられたものか、特に打ち解けて遇せられた。
自分もそれに心を安んじて暫時此寺に脚をとゞめることにした。
一蝶老人は虚無僧仲間に竹道の知識を注入して貰ひたいなどと懇囑された。
此懇囑は自がたヾ名儀なく厄介になる苦衷を察せられて斯く言はれたのだと察した。
貫主ゐ細君も、貫主ともども好意を以て遇され、ニ階の一間を特に自分の居間に宛てられた。
山下氏も自分とともに暫時此處に脚をとヾめて居られた。
翌日になると、多くの虚無僧が代はるがわる出入することゝて、夫れ等の人々にも會うて竹道に就て盛んに議論を闘はした。
此議論の良否と勝敗、此二つは我琴古流の興廢存亡にも關係する大問題であるから自分は力の及ぶ限り説いた。
更に角琴古流は今日こそ全國に行き渡って居るが、まだ其の當時竹の流名、殊に流儀が東京以外には知られぬ頃であつたから、談論上頗る困難したものである。
論者の中には、議論を吹きかけて、否や應でも敗かしてやらうと云ふ意気込みの者もあった。實際に於て藝風の異ったものを、他の脳裏に注入することは頗る難事である。
併し自分の進むべき途はどうあっても、遮二無二猛進して説破するの外なかったのである。
製管法などに説ても、随分皮肉な質問などもあり、裏孔が高い「チ」の孔か小さいなどと云ふことを、極力非難して、為めに議論が數時間に亘ったこともある。
中には普化宗の宗論めいた事までも持ち出して蔑められた。
由来九州は気風が暴く、まかり間違へば、赤恥をかゝせられる虞があるので、自分は渾身の勇を皷して戦って、どうにかかうにか此難問を切り抜けて、彼等をしてどうやら心服させたのであった。
それは畢竟自分の力説と誠意とが、彼等を融合したのではあるが、一つは恩師竹翁先生と上原先生との遺徳が然らしめたのであらう。
山下氏の案内で、福岡の市内や郊外などの見物に日を送り、一週間ほどを經過する間に、一蝶老夫妻を初め出入の虚無僧連とも懇意になり、夫れらの人々から尊敬も受け、信頼もされ、為めに心のおちつきもついた。
併し不圖性來思ひもつかない悪性の感冒に罹った。
夫れまでは感冒位で藥を服んだこともなければ、風呂を廢したこともなかったが、此時ばかりは四十度前後の熱が往來して、うわ語を言ふ位腦んだ。
病中の心細さは何に譬へんやうもなく、漸く此處まで辿りついて、前途に一縷の光明を認めたかと思ふと、又斯かる大病に罹るとは何事ぞと沁々其の薄倖を歎いたのであった。
山下氏や一蝶老夫妻の厚き看護や、何呉れとなき心づくしや、虚無僧連の親切なる慰安やらで、彼これ二週間ほどで病ひも癒つた。
山下氏は自分の本復したのを見て、改まって言ふには「自分に池田(秀山)と云ふ養子同様の者があって、藝はまだ未熟ではあるが質が好い。
本來ならば、自分が琴古流を學びたいのであるが、年も老って記憶も鈍くなったから、どうか此池田を敦導して貰ひたい。
就ては此先き九州を廻るには、熊本までは、今の方法で歩きなさるも宜いが、夫れから先きは是非明暗協會員となって虚無僧旅行をされる方が便利と思ふ。
夫れには池田が經檢があるから、仕込んで貰ひながら道案内をさせる。
さうなれば何んの御心配も要らない。萬事同人に任せてお置きなさるが宜い。
素より旅行の艱苦は覺悟の上の事であらうが、先づ此方法を執られるが一擧兩得の手段であらうと思ふ」と云ふ様な何處までも行屈いた配慮であった。
自分はたとへ如何様な辛いことがあっても、素志を貫徹することに力めるから是非さう願ひたいと頼んだ。
そこで山下氏の發案で、行程を福岡より佐賀、唐津、伊万里、佐世保、大村等を經て長崎に至り、長崎より船で千々岩灘を經て肥後の三角に著き三角より熊本に、さうして熊本著は四月頃、即ち八十日ばかりの日数を要する譯である。
山下氏も夫れまでには何等かの方法を執つて同地に辿り著くから、其の節熊本で邂逅することの手筈にした。
虚無僧連即ち明暗會員等との親交の度はますます親密を加へ、當時先年佐世保で亡くなられた清水靜山君なども會員の一人であった。
さて愈々近日出立と決したので、山下氏や一蝶老人等の發起で自分の為めに送別演奏会を一朝軒に催された。
其の節有志から贈られた金が七、八圓あった。
之を旅費として、茲にしき別れを告げて、単身佐賀の飯盛太一郎氏を頼るべく、殘んの雪も解けやらぬ如月上旬、一朝軒を後にしたのであつた。
佐賀市の飯盛太一郎氏は、土地の紳商として立てられておる人である。
氏は風流韻事の趣味も深く、中にも尺八は明暗流を學び、其の趣味も殊の外深いと云ふことは、豫ねて京都の樋口氏から聞き及び、且つ同氏の紹介に依りて氏をお訪ねすることゝなった次第である。
佐賀に著くや直ちに同氏を唐人町のお宅にお訪ねして来意を告げたところ、氏は喜んで迎へられ、隔意なき應接振りを以ていと親切に遇せられた。
殊に氏は自分と同年からを知るに及び、一層の親しみを以て、何呉れとなく親切に取扱はれた。氏の周旋でひと先づ近所の旅宿に落ちつくことになり、毎日のやうにお訪ねしてゐるうちに親密の度も増した。
氏の夫人も自分の旅者であるに拘はらす、眞底から懇切に遇ぜられたのは嬉レかつた。
恰度其の時は大阪大相撲の一行が同地に乘り込んでゐて、同氏の宅にも櫓落しの大男が三、四人も泊り込んでゐるのを見て、氏の多趣味なる斯かる方面までにも興味を有っておることを面白く感じ、且つ其の世話好きなのをいと頼母しく思った。
或時の如きは舊藩主の別墅神野の御茶屋(今は公園となってゐるが舊藩主閑叟公の遺愛であった多布施川の清流を引き池泉亭樹のあしらひ數寄を盡したものである)に酒肴を用意してともに遊びに往つたり其の他諸所に案内されて見物するなど、多年の友人にも勝れる遇し方であって、旅に出て以來此地位快感を覺えたことはなかった。
氏も「先年道樂半分に、竹友と連れ立って博多まで、虚無僧旅行をしたことがあり、随分難儀もしたが、趣味の津々たるものがあつた。
事情が許せば君と同行したい位だ」と自分の旅行を羨んだのであつた。
又氏の竹友仲間の諸隈に、河内、深川などの諸氏とも氏の紹介で懇意になり、法師貞壽都、榮之都、須賀都等の諸氏とも同様懇親を結ぶやうになって、是等諸有志の配慮で、白山町の罐工場の二階の廣間を借り受けて、自分を来賓としての音樂會を催して臭れた。
其の當時としては未曾有の盛會で、相應の収入も得た。
會に盡力をして呉れた諸氏も、同じ演壇に吹奏した諸氏も、皆明暗流の人々であるにも拘はらず、他流の自分を斯くまでに隔りなく優遇されたことは、自分の終生忘るべからざる記念である。

この項(1)終わり柿崎鐘輔

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