九州路に入る 博多一朝軒 (2) 唐津から伊萬里へ

斯様に追ひ追ひ知人も殖え、人々の好意にますます加はるのみで、此址地を去るに忍びないやうな感じもした、併しさすがに吉百侯の出られた國柄だけに『豊前に行って文字を書くな、肥前で物言ふな』と云ふさへある位言論の盛んな處だから、竹道の事に就ても時には随分難題の數々を持ち掛けて、議論を仕掛けられたものであつた。
由來佐賀入は親交が深くなればなるほど情誼は厚くなるが、なかなか亂暴な處で、気心の知れぬ間は、どんな憂目を見せられるかも分らない。
學校の教員や縣廰の投人など他國から來た者には難題を持ち掛けて、之に對抗が出來ないが最後、濠の中へ投げ込んだり、又は袋だゝきにすると云ふやうな、殺伐な気質の處だと云ふことは、かねがね聞き及んでゐるので、其の覺悟で居った為めか、幸ひに事なきを得たが、或時意外の場所に逢遇したことがあつた。
或日、飯盛氏が突然訪ねられて、今晩楊柳亭(料理店)に關(清英氏)知事主催の主だった官民合同の宴會がある。
自分も招かれてゐるが、君も友人として其の席に同行をせぬかと勤められ、ともども管を携へて豫定の時刻より遅れて、宴酣なる頃に往つた。廓に入って見ると、何がさて玉山既に崩れて了って、たヾ見る客席は處々空席があるかと思へば一方には四、五名一團となつて絃妓を對手に放歌亂舞の狂態を演じてゐる。
他方には醉顔に怒気を合んで激論を戦はすがあり、燭臺火鉢は顛倒して杯盤狼藉の光景、紛然叉難然何んとも譬へやうもない。
自分は東京などでは迚も見られぬ光景に興を醒して逡巡した。
飯盛氏は進まぬ自分を促して、關知事を始め主なる人に自分を尺八の旅の修業者として紹介して呉れた。
すると關知事は、何思つたか酔眼に自分睥睨しながら言はれるには「君は虚無僧だらう。然らば虚無僧の禮儀作法と普化宗の宗意を知って居る筈だ。どうだ」と高壓的に眞向大上段からか國柄の難題を吹きかけて來た。
自分思ふに、どうせ醉ってゐる素人に對してくどくどしく話したところが解かる氣づかひもなし、又席が席だから努めて冷靜に構へて、好い加減の挨拶をして逃げようと思ったところが關知事はやおら猿臂を伸ばして、突如自分の手を捉へて座敷の眞中に曳き出し、「さあ一杯献じよう」と飲めぬ自分に杯をさして、膝詰めの論難攻撃記始めた。
初め好い加減の挨拶をして居ったが今迚も逃がれぬところと観念して、稍々詳論に渉らうとした。すると關知事は自分の言葉の鼻を折って「宜しよろし判った。
實は俺も明治の初年政治に奔走して居る際に、一時身を隠す手段として虚無僧をして世を忍んだこともあつだので、君を試みた譯だ」と云ふ前提の下に、今までの論難は變じて御自身の回顧談に移つて、感慨無量酒興と共に當時の模様を物語られた。
茲に於て最初自分に対して眞向大上段から打ち下された質問は、實は自分に對して普化宗や虚無僧などの事を質したくも何んでもない。
寧ろ御自身の回顧を語らんが為めの底意でありかのだと首肯された。
關知事は更に言葉を改めて「一體尺八は本曲を吹かぬやうでは駄目だ。巫山戯たやうな外面は俺は嫌ひだ」と言ひつゝ雑然たる酒席中にも拘らず「さあ是から君の本曲が所望だ」とて自分を捉へて放されない。
自分は亂雜極はまる此場の光景に脅かされて、本曲を吹いて、其の席に當て箝まることは到覺束ないと思うたが、無理強ひを受けて今更逃げることもならず、最早逃がれぬところと覺悟して、一曲を吹き初めた。
すると今まで居ずまひの崩れた醉態の關知事は、自分が吹き始めると同時に、俄かに衣紋をかき繕ひ、正座して列座に向ひ「諸君!」と?聲一番して「諸君方は知るまいが 尺八の本曲と云ふものに讀經に代るべき尊いものである。今川瀬君が本曲を吹くから、諸君は宜しく謹聽なさい」と命令的に叫んだ。
すると今が今まで囂々然たる會衆は、一齋に鳴りを鎭めて、恰も水を打つたる如くになった。
之が為めに自分は何んの障害もなく、いと心地よく一曲を吹き了はることが出未だ。
斯かる席にも拘はらず知事の一言に一座の人々が居ずまひをなほして清聽されたのは、自分の大いに多とするところであった。
吹き終はるや一座の大勢から我もわれもと雨霰の如く杯をさゝれるので吃驚敗亡、飯盛氏に耳打ちして隣り座敷に逃げ込み、ほッと息をついた。
最初の計畫で飯盛氏と運管で座興にふさはしい外曲でも吹く積りであつたのが、全然豫期に外づれたのでこれは止めて、一人先に旅宿に引取ったのであった。
佐賀にに彼これ三十日ほど滯在した。此地を發足するに當って、大勢の知人と別れるのは、名殘りが惜しまれて、辛いやうな氣もしたが、斯くては果てじと袂を分った。
旅費は前に話しか音樂會の収益があるので、當座の旅費に事缺けぬゆゑ、心を安んじて唐津に向ふことにした。
殊に唐津は祖先の墳墓の地であるので一入の懐しみを以て出立した。
例の八貫目の荷物は先きに佐世保に送り出して、單身此地を後にしたのは、九州の地には珍らしくも殘んの雪の解けやらぬ三月中旬の頃であつた。唐津は前にも言ふ通り、祖先の居った國であって、七、八歳の頃からお伽噺に聞き厭くほど聞いて耳に殘ってゐるので、外の土地よりも遊思が深かった。
旅宿に著くと、聞き及ぶ名物が鯨肉を賞翫しょうと思ひ、見計らひもなく澤山持って來いと命じた。箸をつけて見ると、聞くと見るとは大違ひ、想像してゐたよりは不味かったので、僅かばかり口にしたのみで箸を投げて了った。
想像と事實とはこんなものかも知れない。
翌日早朝よりかねて憧るゝ市中の見物に出掛けた。
此の地は松浦河口に跨りて、北は唐津灣久松浦潟に臨み、九州北海岸唯一の良港と稱せられ、人ロ一萬二千を算すると云ふことである。先づ舊り城址今の舞鶴公園に赴いて、園内より右を望めば、松浦の曲汀沓渺大孤を畫き、萬松一路白砂の上に翠を連ね長霓の蒼穹にかゝるが如きもの、是れ所謂虹の松原であって、清麗の景、優艶の状何んとも名状の辭がない。
歩を轉じて城址の記念として唯一つ殘れる天主臺に昇って渺々たる海原を望み、風雨多年、人幾代、萬感交々至るものがあった。
と云ふのは舊藩主が、此地に居った頃、城内に狐狸や、天狗火の物の怪のあったと云ふ話などを追想したからであつた。
加倍島に渡って田島神社に望夫石を見、佐用姫が狹手彦の舟を追ひて痛恨の餘り、悶絶てて遂ひに石に化せりと傳へらるゝ石になりたる松浦潟領巾振山の昔を偲び、近松寺に百花爛漫の元禄の春に裝ひを凝らせし近松門左が授業得度の痕を思ひ、名護屋に至りて、長汀曲浦に北海の荒波に吹き靡いた松原を見、幼時のお伽噺に、天正の昔豐太閤が明韓征討のとき、この磯馴れの松を目障だとて睨み倒したとの傳説を想ひ起し、實景以外に、何んとも言ひ知れぬ懐みや興味を覺えたのでありつた。
唐津は尺八の方には少しも縁故かないので、一通り土地の見物も了はつたから、伊萬里に向って出立する氣になつたのは午前十一時頃であつた。
旅宿の亭主に相談すると、伊萬里に往くには七、八里もある山道を越えればならず途中日が暮れて了ふ。
それに山道には澤山の炭鑛があって、坑夫の棍徒などがゐて、どんな危害を加へぬとも限らないから、夜道は物騒だ。明日の朝になさっては如何と留められたが、思ひ立つたが最後、矢も楯も堪らぬと云ふ持つて生れた偏性は、亭主の忠言を容れる餘地がなかった。
晝飯をしまって立たうとすると、時は三月中旬であるのに九州には殆ど無いと云ふほど珍らしくも雪がちらちら降り出した。
それを機會亭主はまたもや途中の危險を案じて引き留めたが、さう言はれると、恂更惡癖の反抗心が起きて、なに惡漢が出ても身體より外に盗まれるものもない。
彼等は自分の身體を盗んだところで何んにならうぞ。そんな者には少々はお目にかゝつて見たいものだなどと云ふ、先方の氣を惡くするやうな捨臺詞を言ってとうとう出立した。
今になって考へると、他人の好意を無にすると云ふは誠に相濟ぬことであつたと思ふ。
途次炭坑を二つばかり迂回して視た。
僥倖にも途中雪も歇み、無頼漢の迫害にも逢はすして、無事伊萬里に著いたのは勿怪の幸ひであつた。
かくて今福旅店といへる旅舎に泊り込んだのは、午後の九時過ぎる頃であつた。
伊萬里は陶器の名産地で、有田に産する有田焼は、往時主として此地から輸出され、却って伊萬里焼として世に響いてゐることであるから、せめて肥前名邑の一たる市内の模様など視察して置かうと云ふ心組みで市中を徘徊した。不圖したことで尺八を吹く青年に邂逅した。
彼は自分の旅宿を聞いて「尺八を持つて遊びに往きたゐが差支ないか」と云ふことであつた。
そは當方の望むところであるので承諾の旨を答へたところ、其の夕景になつて彼は、尺八の同輩四、五人連れで押しかけて來た。初對面のことゝて、互に胸に一物も二物も蓄へて容易に心を許さない。
押し問答の末、先方で先づ一曲吹くことになった。

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