九州路に入る (3)伊萬里、佐世保、長崎(副題は編集者)

其の手並を知ったので、先づ此位ならば手に負へぬ気づかひはないと見て取つた。
自分も一曲を吹いた。此青年は故人になった、須藤玄窓と云ふ當時九州で相應に名を售った者に就て、俗曲類を學んでゐたのである。
須藤と云ふ人は四国伊豫の産で、豊後邊にもゐたことのある人で、業もなかなかいけて居ったやうに聞いてゐた。
此青年も吹き振りに癖もあり幼稚なところもあるが、彼の持つて生れた藝才は蔽ふべからざる美點が見えた。
自分はその時思った。斯う云ふ人は、田舎で不規則な稽古をしてゐるのは誠に惜しいものである。
東京邊りで正式に眞面目に勉強をしたならば、斯道に一廉の貢献をすることは疑ひないと思った。
ようよう打ち解けて來たので、自分は琴古流の本義と本義の特徴ある講義風の話をしたところ、彼はそれに服して一層打ち解けて來た。
彼等は深更に及んでもなかなか歸る様子がない。
午前ニ、三時頃になって漸く辭し去つた。
歸るに臨んで、もう一日是非滞在して貰って教へを乞ひたいと云ふことであったので一日延ばすことにした。
後で考へて見ると、彼等の最初の意気込みは、自分を旅の尺八吹きと侮って、例の肥前特有の敗けず気性を發揮して、一本やつけて凹ませてやらうと云ふ魂膽であったやうに思はれる節々があつた。
翌晩またまたやって來て其の夜も深更に及んだ。自分は此青年に、「何んとかして正しい流儀を學んで君の天分を遺憾なく發揮したらどうか」と勸告したととろ、彼青年も大いに悟るところあったと見へ、是非お言葉に副ひたいと云ふことであつた。
此青年と云ふのは、現に福岡市博多に居る松尾月雫君其の人であつた。
十六年前に於ける目分の勸告は、偶然に言うたことであったが、それが箴を成して翌年恰度同じ季節に佐賀で偶然出遭うて、斯業の為めともに上京することになったのも、此會見が縁の初めであつた。
二泊の後ち伊萬里を立った。松尾青年は別れを惜しんで有田まで送って呉れた。
斯くて途中事なく佐世保に著いた。
佐世保には別に尺八には縁はないが、佐賀の飯盛氏の叔父に當る横尾市隠老人をお訪ねした。市隠老人は飯盛氏に劣らぬ多藝多趣味の人で、座談も面白く、興の加はるにつれ、時の移るも知らなかつた。此市隠老人にも厚き歓待を受けたのは目分の大いに謝して居るところである。今日の佐世保は人口十二萬餘を有する大都市となって殷賑を極めてゐるがまだ其の頃は軍港もあまり開けぬ頃であつた。從って尺八を吹く者なども皆無と言っても宜い位であつたが、其の後佐賀の飯盛氏や根尾老人などの手で、清水靜山君がこの地に來て、明暗流を鼓吹し、續いて琴古流を松尾君がこの地に入れて、兩流交々行はれるやうになった。
一泊の後ち佐世保を發し大村に立寄つた。この地は大村氏の舊城址で、人ロ一萬餘、大村灣全周唯一の名區として世に聞え、玖島城址に藩祖歴代の靈を祀る、大村神社が鎮座してある。
境内より望めば、左に對岸天草を呼び、右に臼島、箕島の青螺を數へ、眺嘱甚だ佳麗である。この地の見物も了はって、長崎に向つて出發した。
長崎に著くや、先づとある旅宿に投宿し、翌日この地で名高い村田保壽老人を訪問した。
老人は自分の來訪を喜び迎へ、懇意の銀屋町の旅宿を周旋して呉れたので、其處に落ちつき、翌日から氣の進む間ゝに市街の見物を始めた。由來長崎は五港の随一として知られてゐたが、往古は長崎二郎なる者の居城せし一寒邑に過ぎなかったといふ。
天文永禄の頃、西斑牙葡萄牙の商船が初めて此處に來って貿易を聞いてから遽然として繁榮の巷となった。
鎖国の令一度出でゝ禁制一に峻嚴を極めたる中に、この地のみ濁り門戸を聞放して、西方の文物消息を入るゝに忙はしかった。
開國以來我國貿易の中心漸く東に移って此地亦曩日の観なきに至つたけれども、尚十八萬の人口を有して九州十市の首班を占めてゐるだけあつてさすがに殷賑を極めて居るのである。
かくて脚は先づ同市の産土神なる諏訪神社に向った。千木高く聳え、宮柱ふとしく建ち、廻廊長く連りて自ら森嚴を極め、境内よりは長崎全市を一望の下に俯瞰することが出來る。
遙かに諏訪神社と相對して稲荷神社がある。此處は風頭山麓樹林蓊鬱として晝猶暗く、渓水滾々として流るゝ幽邃の地である。
唐風の寺院として乱嚴を極むる、崇福寺(禪宗臨濟派)は寛永六年、明の歸化人の創設にかゝり、明歴三年、黄檗隠元禪師茲に法た説くこと三年、即非和尚明より來り住して、堂宇を修築せりと言ひ傳へてゐる伽藍である。
是等主なる神社佛閣を見物し、去って海岸通りに赴いて、潮水漫々幾十百隻の船艦黒煙天に冲し、帆檣林立せる壯觀を眺め、居留地に到りて洋風の宏壯なる建物や貿易の模様なども視た。總じて長崎の市街は他所と異ってりる點が少くない。
中にも市街に自然石が敷詰められてあるのが特に目をひいた。
元來摺鉢の底のやうな狭いい海岸に澤山の家を建てたのであるから、勢ひ山へやまへと市街が展開してゐるのは他と異った趣きがある。
何しろ昔は江戸長崎と謂つて、江戸と竝び稱せられた處で、從つて富有なところから、山手の街は大概石崖で積み上げられてある。
餘ほど金がかゝつたことであらう。特に珍らしく限に映じたのは、猿みの、を賣っゐる店などがある。
これは外國船の出入を目的に斯かる商賣をするのであらう。
まだ面白い職業かある。それは此港に出入する艦船の石炭を積みて出帆した後ちに、其の積み込みの際海中に落ちた石炭を網で拾ひ取るのを職業としてゐる者がある。
それに市では税を課してゐると云ふことだ。是等は他に類のないことであらう。
或日村田保壽老人の宅で催された仁康教會のお祭に列席して吹奏などもした。それから以前東京で懇意であつた生田流箏曲家吉住深山老人が恰度此地に脚をとどめて居られたので、其處にも度々お訪ねして『四つの袖』『鶴の聲』『袖香爐』などの唄物を六、七曲作譜した。
その吉住老人の筝は、弾き手としては日本有數の人である。尺八もなかなか達者に吹いた。
昨年死去された槍田篁童君は後ちには琴古流になったが、最初はこの吉住老人から教へを受けた某氏に就て尺八を學んだのである。
さればにや槍田君の尺八に多少他に相異した味のあったのは、氏の天賦と言へば言へるが、一つはこの吉住老人の藝風が知らず識らずの間に血脈を通じてゐるのではあるまいか。
この吉住老人は今よ三十年ほど前、盲目の身であわなから、一管の尺八を命の杖に九州、中國、畿内、東海を遍歴し二年を經て、遙々東京に出たと云ふことを聞いて居る。
兎に角盲人としてあらゆる冐險にも堪へ、且つ藝に對する氣根、共に群を抜いて居ったに違ひない。
性來頑固一徹の人で、晩餐一酌の酒に陶然たる際は、たとへ百金千金を積んで聘されても頑として應じなかった。
何んの神様だか知らぬが、朝タ一心に祈壽を捧げて居るところを見受けた。
或信念の牢として技くべからざるものがあったに違ひない。
今の所謂世間を器用に渡ったり、悧巧に立ち廻るなどといふやうなことは微塵もない人であった。
自分が縷々訪問してお邪魔したにも拘はらず、何時も機嫌よぐ打ち解けて語られ、優遇されたことは、今尚肝銘して忘れぬところである。
村田老人の方は土著の人だけに、専門の門人も多く、なかなかの勢カ家で當時此地に於ける筝曲界の長老であった。
前にも述べたが、氏も亦自分の訪問を衷心から喜んで、好遇されたことは感謝に堪へない次第である。
其の頃寺町に住んでゐた筑後篠川生れの村石城慶といふ、年輩五十餘の法師を訪問して別懇になった。
此人は三絃、胡弓、尺八、何でも相應にいけると云ふ、盲人としては器用な人であつた。
初めて會うたときに『亂輪舌』を吹いて、氏に三絃を弾いて貰った。
叉氏の尺八をも聞いた。氏に齒が脱けてゐるので、手製で竹で作った前齒を箝め、妙に頬を膨らめ、尺八の管尻を三味線箱に載せて、非常な意氣込みで吹く。
素より正系の尺八とは言へず、又手製の義齒を用ひられる為め、無論音は良いとは言へぬが、併し三絃のカで壷に箝つて吹くことゝ、管に向っての意氣込みの旺盛なるには、泌々感服したのであった。
關西や九州邊りでは弾絃を業とする盲人を總て法師と稱へ、其の頃までは皆頭髪を剃り落したものだが、今尚その習慣は依然として存するそうである。
故に法師の毛髪の伸びたのは、吾々の髭髯が伸びたのと同様他人に對する作法として禮儀を缺くとでも云ふのであらう。
二度目に城慶氏をお訪ねしたときには、氏は庭先で自身で頭髪を剃って居られた。
自分は器用なことが出来るものと感心して見て居たが、その早きこと本職が見て剃るょりも、却って見えぬ氏の剃る方か幾倍早いか分らない。
恰も瓜か冬瓜の皮を剥くやうに、瞬時に而も無雜作に、くりくり坊主に剃り上げた手際のほどだヾたヾ感服の外はなかつた。
・・・自分と氏とは宿世殘からぬ因縁があったものと見え、後ち熊本滞在中、小出老人を訪問した際、同氏の宅で偶然氏に會した。
其の時はたしか氏の『殘月』を聽き、自分は『青柳』を吹いたことがあった。
長崎に三大名物として稱せらるゝものがある。
諏訪神事(九月八日、九日)盆祭(七月十四日、十五日)凧揚げ(三月十日)の三つで、執れも壯觀であると聞き及んでゐるが、不幸にしてその日に出會はぬので、せめて墓所なりと見物し置かんと一日出掛けて見た。
なるほど聞きしに勝つて立派であった。或随筆に、長崎の魂まつりといふて、毎歳孟蘭盆會には、各戸家族を挙げて粧を凝らし、行厨と洒とを携へて祖先の墓畔に集ひ、墓前には二股三股の燈架を設けて燈火を掲げ、或は篝を點ず。
その數二、三十より多きは數百に及び、煌々として満山火ならざるはなしといふ奇觀を呈するといふ。
かくして祖先の靈を慰めて、自分等も尺八や三絃を奏して歡樂を恣にし、夜の更くるら知らぬ位であるといふ事が書いてあるのを觀たことかあった。
して見ると、この土地には昔から尺八を吹く者があったと見える。
草野某などといふ吹手があったと云ふことも聞いて居るが、其の他の人名は失念した。
明治の初年、京都大阪で雷名を轟かした近藤宗悦はこの土他の人で、長崎では一名チャルメラ宗悦とも呼んでいた。
何故斯様な綽名をつけられたかと云ふと、チャルメラ(唐人笛)を吹くことに始まって後ち尺八に轉化し、寒中稲荷山で徹宵吹いて修業したなどといふこともこの土地の話である。
同人は四十歳前後の頃一管の尺八を携えて京に上った。
その頃山崎檢校が、京都で羽振りのよかった頃で、檢校のお浚ひ講のところへ通りかつた。
同人は之を聞いて吹きたくて堪らず果ては突如飛び込んで、乞うて一曲吹かして貰った。
其の頃ほひの京都は藝道隆盛の絶頂に達してゐたときであって、列座の諧法師等に同人の天禀の藝才を認められて、遂ひに京都に脚をとめることゝなり一層研鑚に努めた。
後ち大阪に移住した。畢竟同人が京阪に名を轟かしたのもそのもとは長崎である。
聞く所によれば同人の前身は法印であったとも云ひ、髪結師であったとも云ふが、その眞偽は別として、執れにしても斯かる名人を出したと云ふことは長崎の誇りである。
後年同人が盲人の若者を養子同様に養って同人の手で筝曲を仕込み遂ひに堂に入らしめたのが二、三年前物故された彼の有名な古川龍齋老人である。

続く

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