九州路に入る (4) 長崎滯在

長崎滞在中偶然高徳の知遇を得て裨益するところ尠からぬものがあった。
或日の夕暮、何んの用意もなく飄然旅宿を立ち出で、宵月に誘はれて、別に行方を定むるといふこともなく、山の手邊を漫歩した。
不圖見ると、小高い山の中腹に大きな山門が見えるので、歩みを運んで石段を昇り、仰いで山門の竪額を見ると『勅賜海運山』の五大文字が記されてある。
何れ由緒正しき寺院ならんと思ひつゝ、壯麗なる山門に見惚れてゐると、本堂の讀經が微かに漏れ聞える。
自分はこの尊き讀經の聲にひきつけられて、我知らず門内に入り本堂の廊下に腰を下ろして泌々讀經を聽いた。
この莊嚴たる讀經は、自分の耳には幽玄なる音樂と聞えた。
稱々暫し讀經に心耳を澄まして、恍惚たるものがあつた。
茲に於て自分は如何にかして、この高尚にして一種の力を有する讀經、即ち音樂に就て、一つ研究して見たいといふ好奇心勃々として、禁ずることが出來なかった。
それから暫くすると、讀經は止み十名ばかりと覺ぼしき寺僧が庫裡の方へ立ち去る模様である。
自分は幾度か躊躇したが、思ひ切って庫裡に廻り、役僧に面會を求め、辭を低うして法丈に面會を乞ふた。
ところが意外にも何んの造作もなく直ぐ會はうと云ふ返辭であった。
ふに、法丈とは如何なる人かと心の躍りを押し鎭めながら役僧の教へについて歩を進めた。
と見ると、住持と呼ばるゝ人は年齢四十四、五歳かと覺ぼしく、肥満豐頬、柔和の相貌の方で、片頬に笑みを含んで自分を迎へられ、茶菓などをすゝめられて徐ろに來意を問はれた。
自分は有のまゝに、今日測らず門前を通りかゝつたことから本営の廊下で讀經に心耳を澄ましたことを語り、延いて讀經を音樂としての研究がして見たい意が起ったので失禮も顧みず突然お訪ねした次第と陳べ、併せて自分は尺八を修行の為め遙々東京から此邊を遊歴して歩く者である旨を言ひ足した。
すると住持は我意を得たかの如き様子合ひで、それはようこそ訊れられたと喜ばれ、且つ言下に貴下の察しの通り讀を經むから讀經に違ひないが、節は立派な音樂である。
佛家では之は梵唄と名づけて之に關する書物も數々ある中に魚山集が元であるとて、是が注釋や補綴などの數々をいと氣輕に起つて、別室から持って來て示された。
一見するに色々の記號を以てが表はしてある。
宮商角徴羽の音階から嬰變のの記號までを附記して明細に出來て居る著書であった。
住持は重ねて、自分は此専門でないから微細に渉っては説けぬが、大阪には梵唄の專門家も居るから機を見て研究せられたら得るところがあるだらうと云ふ、何處までも行屈いた親切なお話であって、尚貴下の滞在中は是非遊びに來るやうにと云ふことであったので、自分は其の好意を陳謝し其の日は一先づお暇をした。
聞く所に依れば此寺院は、禪宗曹洞派の九州に於ける探題とも見るべき寺格の高い寺で、寺町の皓臺寺であった。
さうして此寺院は元和元年佐賀玉林寺の住職一庭といへる者勅を奉じて供泰寺に來り、大いに切支丹教徒の轉宗を勸誘し、寛永三年寺堂を今の地に移し、同四年畏くも明正天皇より寺僧了外といへるに廣學禪師の読を賜ひ、紫衣を許され、寺號を海雲山普昭皓臺寺と賜うかと言ひ傳へて居るとのことで、當時の住持は霖玉仙師であられた。
其の後三、四度玉仙師をお訪した。或時は座中に火蓮と云ふ居士が居られて、自分に紹介されたことがあつた。
此人は以前官吏であったが、深く禪に歸依して以來托鉢を以て長崎東京間を十數回往返されたと云ふ豪の者であると云ふ珍らしき人であった最後にお暇乞ひ旁々伺ったときに、自分は多少禪に趣味を持って居るところから、師に對して自分の守り本尊ともなるべき御訓戒を頂戴したいと乞うた。すると師は平素のにこやかな何んの隔りもない態度を急に改められ居住ひを變へて暫し無言であられた。
自分は其の何んの意なるかヾ分らなかった。師はじっと眞正面に自分に相對して瞑目して居られたが暫くすると、「喝ツ」と眼を開かれて自分を凝視され、徐ろに口を開き、底力のある恰も腹の底から傳はって出るかの如き音樂で、「貴下には是何物ぞと云ふ一句を授けよう」と言ひ放たれ、圭た暫し無言にかへられた。
・・・自分は前に建仁寺の黙雷師に對面の際に、散々膏汗をかいた苦い經驗かあるので、實は用心おさおさ怠りなく言ひ出レたのであったが、斯く言はれたのみでは、取りつく端もない。
為めに師の唇の再び開くを待つの外はなかった。
やがて師は徐ろに口を聞かれて「吾心に衝き當って來る總ての物を是何物ぞと引っ捉へて探究する。
さうすると、其の探究する事相の一は二を産み、二は四を、四は八を産むと云った風に、事相が簇生して遂ひには窮極する處がなくなる。
窮極なき處是何物ぞと更に改めて幵(ケン、担当者註、開の旧字、一説に誤用とも)を追盡するには根精のあらん限り、魂魄の續かん限り、山河を跋渉するが如くに、踏みにぢり蹴破り、明暗に浮きつ沈みつ勇往邁進する。斯くして終ひに思慮斷絶の境涯に到るものぢや。
夫れで思慮が謝絶して呉れれば結構ぢやか、死ぬにも生くるにもさう容易には往けぬ。
其處にまた新たに思慮が生れる。
此處が所謂人間ぢや。即ち世間と云ふものぢやて、其の先世に又は出世間と云ふ面倒なやつがある。
是で終局かと云ふに其の先き先きの境界がまだ有るとでも云ふのぢや。
兎に角お若いから是から確かりと實行なさい」と巨細にお説き下された。
奥理は自分に理解することが出來ぬにしても、到れり盡せる御親切を酌み得て、應へに代ゆるに無言のまゝに頭を低げたのであつた。
かくて厚く厚く謝意を陳べ、且つ明日熊本に向つて出立する旨をな話して附し去つたのであつた。
・・・因みに、玉仙師に對しては武者修業的旅行を終へて歸京後数年間年賀状は怠らんやうにした。師からも其の都度國風を書き添へられた温味を帯びた返書に接した。師は後年に至るも自分の奥州生れなること記憶して居られて、陸奥の荒い風雪に堪へ忍ぶ孤松が巖の上に榮え行くと云ふ意味の國風一首を書き添へられた賀状を頂戴したこともあった。其の後本山永平寺に轉じられたと云ふことで、夫れからつい御無音になつて居ったが、最近聞く所に依れば、皓臺寺に復歸されて居られると云ふことである。機會があったならば是非温容に接して當年のお禮を陳べたいと思ってゐる。

九州路に入る 続く

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