熊本に向つて出立いよいよ虚無僧へ

かくて厚く厚く謝意を陳べ、且つ明日熊本に向つて出立する旨をお話して辭し去つたのであつた。
・・・因みに、玉仙師に對しては武者修業的旅行を終へて歸京後數年間年賀状は怠らんやうにした。
師からも其の都度國風を書き添へられた温味を帶びた返書に接した。
師は後年に至るも自分の奥州生れなること記憶して居られて、陸奥の荒い風雪に堪へ忍ぶ孤松が巖の上に榮え行くと云ふ意味の國風一首を書き添へられた賀状を頂戴したこともあった。其の後本山永平寺に轉じられたと云ふことで、夫れからつい御無音になクて居つたが、最近聞く所に依れば、皓臺寺に復歸されて居られると云ふことである。
機會があつたならば是非温容に接して當年のお禮を陳べたいと思つてゐる。
長崎を立つたのは四月も半ばを過ぎた頃と記憶して居る。此處からは海路の旅で、外洋を船で渡ることは初めてのことでもあり、内心怖氣もあるが、又珍もしくもあるので、一種の好奇心を以て汽船に身を托した。
港から外洋に出るまでには、何んとも名状の出來ぬ景色に見惚れなから甲板に佇ちづくめであった。
船が進むに連れて、右に高島炭坑を眺め、夫れより少し進んで左に野母崎を見ながら船は迂回して千々岩灘にかゝったときは夕陽將にに西山に春づかんとする際であったので、早崎の瀬戸に入るや左にロノ津、右に天草を眺め早き潮に流れつゝ進む有様は、恰も重圖を展くが如く躬は是畫裡の人かと怪まれ、覺えず壮絶快絶と叫んだ。
船の島原灣に入るや左に温泉岳の秀容温然として前に横はり悠々廣潤の気を恣にした。天草に近づくと無數の群島を見る。
上古は是等の群島を天草の國と稱し、葦北の國阿蘇の國と共に各一國を成したるものなりしが一群となりて肥前に属し遠く推古天皇の御宇なりしといふ。
由來此地方は小西行長の感化を受け南蛮寺の設立多く天主教を奉ずる者多かりし為め、寛永年間天草一揆も起りたるものならんなど、感慨に耽りつゝあるうち、船は丘陵性の山岳を以て蔽はるゝ宇土半島の三角港に居いた。
此地は長崎天草方面に航行する船舶の發着所として汽船和船の來り碇舶するもの常に群を成し、汽笛の昔日夜海波に響いてゐる。
此處は港の設備成って間もない時であったが、将来有望な港になるであらうと云ふ話であつた。
三角から汽車に搭じて熊本に到著した。熊本に著くや、豫ねて山下貞幹氏と打合はせ置いた草葉町(縣廰前)の水野と云ふ宿屋に投じた。
山下氏を待ち合はせる間別に是ぞと云ふ用事もないので、市中の見物に日を送つた。
熊本市は人も知る如く市街の整頓、人烟の稠密蓋し他に多く其の比を見ざる大都會である。慶長年中鬼将軍加藤清正が今の熊本城を茶臼山に築き、寛永年中、細川忠利加藤氏に代りて以来、藩士の邸宅と高價の住宅と、劃然區劃をつくつて大市街の觀を備ふるに至ったが、明治十年の亂、兵燹の為めに市街全く焼き盡され、一時は焦土と化したが、現今に却つて舊時の面目を一新したるの觀がある。
先づ鎮西第一の名園と稱せらるゝ水前寺(細川氏歴代の遊園)に赴き、數寄を極めた園内に滾々として絶えざる泉水の清冽豐富なるを感賞し、或は清正公の廟にして結構壯麗なる本妙寺や、清正公の靈を祀れる加藤神社に詣で、或は熊本城(一に銀杏城)に赴きて名高き会明水、銀明水を視、其の規模の宏大なるに驚き、或は十年の役に薩摩が砲塁を設けて熊本城を撃破したる處として有名なる花岡山に遊びなどした。
叉或時は東京相撲の大砲(今の年宵待乳山)が横綱允可の免状を同地の吉田家から授かる為めに、此地に東京相撲の興行があつたので、そヾろに懐かしいやうな氣がして見物に出掛かけたりなどした。
市中の見物も略濟んだ。
たヾ此上は山下氏の來るのを待ち合はすのみであった。
處で不圖思ひ出したのは、豫ねて山下氏から聞き及んでゐた長谷氏の門人で、琴三絃を教へてゐる中山サトなる人であつた。
或日一番町の住居に訪ねて合奏を試み、其の後も度々訪れた。
家人としては、其の母親と令弟と三暮しで、遂ひ夫れ等とも懇意になった。
其の家は以前郡部の素封家で、何不自由たく暮してゐたが、父親が商売や相場で失敗した結果、熊本に出て間もなく數年前に父親が亡くなり、夫れ以来樂しみにした稽古がとうとう生計を助ける途になつたと云ふ事など聞き知るまでに懇意になった。
間もなく其の家は洗馬町の廣い家に轉じた。
そこで家人の言ふには宿屋は何かと不自由であらうし、恰度此方は山下氏とも知合ひゆゑ、宅に居られて待ち合せては如何と云ふことであつた。
自分は其の同情ある言葉と嚢底の手薄とを考へ合せて其の家に厄介になることにした。常時其の家の裏手が練兵場で、此處に御國自慢の一つになってゐる盛んな招魂祭があつて、宇土や御船や其の他から親戚の人々が祭禮見物に見えた。
家人から自分を夫れ等の人々に紹介され、遂ひに遊びに往くことまでも約束した。
徒然に苦しむ自分は其の後間もなく其の約束を幸ひに、中山親子と自分と三人建れで母親の實家なる宇土町の岡崎家を訪れた。
實は其の頃は、未だ尺八の地位が低く、社會からは外道視されてゐた。
それにまた旅先きの自分は、何處の馬の骨か判らんと見られても致し方がない境遇に居るのである。夫れにも拘はらす岡崎一家の人々が衷心から歓待して呉れて、小西行長の城址、有明灣に沿ふ景色の住吉、粟島明神、鎮西八郎爲朝の城址のある雁回山等に遊んだ。
此家に中山の母親の姉に常るサノと云ふ老人がゐて、此家の往同様主要な人になってゐた。
此老人は二十歳の頃から後家を通して、宇土の細川家などに二十年間も、奥向を勤めて来たと云ふ気丈な嚴しい人であった。
最初は自分を餘り子供扱ひにするかの如く誤解もしたが、話すに従って夫れぱ親切に過ぎてゐたことの了解が出来た二、三日逗留して愈々歸る前夜、サノ老人が改まつて言はるゝには「姪のサトは自分の養女に貰はうとしたこともあつたし、叉先年中山の一家を上京させて良縁を心掛けて見たが、縁なくして空しく歸った。併し此まゝ田舎で朽ちさすのも惜しい。で、貴下御歸京の上、中山一家の上京するに就いて力を添へて下さるか、夫れとも亦貴下の家内としてお迎へ下るならば此上もない幸ひと、老いの願望であるが・・・」と云ふことであつた。
自分も前途大いに為すあらんとする鬱勃の氣に満つる身に取つては、此上もない耳寄りの話ではあるが、自分は此後幾年間浮浪の境涯を經過して、確かと臍が固まるや否や我身ながら見當が附かぬところから、自分は恁く答へた。
「弾ける者を配遇に娶ふことは、自分の特に望むところではあるが、是は重大なる責任あることゆゑ、追って此今頃までに九州、琉球、四國等を廻って來て、再びお目にかゝるまでに、確かと心に誓った上御返答しませう」と應へた。
此話は多少なりとも此家の問題になってゐたものと見え、話の途中にで家族の誰彼も出て賛成の意を表して呉れた。
尚舎弟の方も、是非之から旅先きに同伴して具さに艱難を嘗めさせて貰ひたいと頼まれた。
其の夜寝に就いてから徹宵苦慮を續けたのは、尺八と云ふものは實驗上藝術家の立脚地を明かに立派な精紳を以てしては商賣にはならぬ。
安樂に妻子を養ふて一家を形成ることは萬々難かしい。
餉までも犠牲的に奮闘を續けねばならぬ。
夫れが果して家内たる者の弱き女心に堪へ得らるゝか、叉夫たる自分の理想を理解して、奮戦苦闘の道づれたることを得るか如何かと云ふ此點を遲疑した。
翌日熊本に歸つて二、三日すると、中山の父方の叔父が見えた。
其の際母親から岡崎の伯母の視察した結婚問題に就て相談をかけると、叔父も前に隠談があつたものと見え、是非にと言って賛成でおつた。
色々話は捗取つたが結局のところに行くと、前にサノ老人に答へたと同一に歸着した。

(附記)尺八の一般に流行する今日となつては、立派な公明の精紳と道義の念とをのみ以てしては商売にならぬ。
妻子が養へぬなど言ふのは笑止千萬のやうではあるが、二た昔に近い其の頃では不思議でも何でもない。営然至極な判斷であった。
現今は夫れの反對に、立派なる精紳を把持して斯道に當らねば、立ち行きかねると云ふ傾向を見るにつけても、悲喜交々感慨無量の回顧を深ふするものがある。
世の中は總てが不思議づくし、就中赤縄の縁ほど奇しく感するものは他にあるまい。
自分は殊に奇しき感じを經た一人である。
右の本文に云ふ中山サトとは後ちに至ってしかじかと申すまでも良く、現在自分の家内で、舎弟と云ふのは尺八を専門にしてゐる竹友社員の、中山徳三君の事であるのを斷はり申して置く。

山下氏が遅れて福岡から池田、荒木兩君を伴れて熊本に見えた。
氏は草葉町に道場を設けられたので、自分は中山にゐて氏の道場と往復してゐた。其の時自分に入門されて、中山方に稽古に見えたのが、山邊武彦氏(現大阪)が先輩で、高須茂氏、故人になられた園田春耕氏節であつた。
中山に移って間もなく、琴の加藤チヱ老人を度々お訪ねした。
此方に、現在の家内の師匠で、なかなか堅く仕上げられた藝であつた。
八重都、小井手、志賀都の三氏には、山下氏えてからお訪ねしたのであった。
三氏とも三絃が主で、土地では、長谷氏に次いで評判高い人々であった。勸財旅行の準備は總て山下氏の配慮と、門人の厚意とで、明暗教會の免許状も京都東福寺より著し、虚無僧に要する天蓋、袈裟、三谷(頸から胸に懸けて貰ひ物を容るゝ箱)、化粧帯、印籠、白魚子の木綿単衣、手甲、脚絆等が洩れなく取揃へられた。
そこで虚無僧姿の四名と、門人の三名とを合せて記念の寫眞を撮ることになった。
自分は初ての支度ゆへ皆に手傳はれて虚無僧姿になった。
其の際の自分は、仮装して舞臺にでも出るかの如き羞かしいやうな、嬉しいやうな、そして後に何やら心細いやうな気がした。
叉綿帽子ならぬ天蓋を被されで嫁御寮のお輿入れの気分までが想像された。
一同靄々の裡に撮影を終へた。
熊本の滞在は意外に永引き、早や四、五十日も經過したので、中山君は都合次第、後より追ひかけることゝし、荒木君は國元より異變の電報に接して見合せとなり、山下氏は八代まで見送るとて一行三名、六月一日(明治三十四年)をトし、門人其の他に見送られて、汽車で八代に向った。是からは虚無僧と云ふ旅の形式が激變したので、不安たる暗黒を寸前に想像せずには居られなかつた。
そして面白さの間にも何んとも言ひ知れぬ淋し味を禁じ得なかった。

続く

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