人吉と虚無僧

人吉は相良氏の舊城地であって、球磨の急流市街の中央を東西に貫いてゐる。
球磨川下りの壯遊は此地りするので、梅花の渡より舟を雇へば八代に至る十六里ほど五時間にして奔下することが出來るのである。
市街外づれから三人打ち揃って、元気よく勧財しつゝ市中に這入った。斯かる山奥邊箆土に三人連れの虚無僧が這入ったのは、非常に珍らしかったと見えて、尺八の音を聞いて一町屯二町も先きから人出がすると云ふやうな有様であった。
さう云ふ次第であるので、往く往く好遇されて銅貨や米が三谷に一杯になった。為めにまだ疲労したと云ふほどでもないが、豫想外の収入があつたので、心緩んで土地では先づ相應な旅宿に投宿することにした。
すると土地の好者が二、三人訪ねて來て言ふには「此地は古來尺八の行はれたところで、夫れ等の関係より虚無僧の芳名録が有志の手に保管されてあって、此地に脚を入れた虚無僧の名が書き留められてある」と云ふ話をした。雑談の後ち夜分も再び他の者も誘っで来る旨を約して歸った。
夜に入るや有志の面々が手に手に手製の牡丹餅や壽司などを下げて土産持参で来て、深更まで吹奏やら雑談をして歸った。
客が歸ってから三人の三谷に充満してゐる米や銅貨を恰も浦島が玉手箱でも開くかのやうに、希望と興味を以て開けて見た。
銅貨が四圓餘りと米麦粟を合せて幾升かあつたのは嬉しかった。
之ぞ恐らく虚無僧旅行中の記録を破ったのであった。夫れや是やで旅行の面白味も覺え、従って面の皮も多少厚くなって憂愁の眉もだんだん消散するのであつた。
・・・當時の宿賃は十二、三銭から二十四、五銭位で足りるのであるから、此思はぬ過分の収入に、早や前途を樂観したのも今から考へて見れば無理もないことだらうと思ふ。翌日、楽観の一行は半日ほど歩いて惰気を生じて歸途に就いた。
すると或家で四、五人の者が店先に集って、屏風などを立て廻し、茶菓などを準愉してゐる處に邂逅した。
前を通り過ぎようとすると、自分等を呼び留めて言ふには「昨日貴下方修業者が来られたことを知ったので、今日てつきり此筋を通られることと存じて、茶などか勧めしようと思って、先刻からお待ち受けしてゐたところです」と云ふ意外なところに出會うた。
自分等は此測らざ芯歓待を受けたのを喜んで招ぜらるるま史に座敷に通って何曲かを吹奏した。
其の夜の宿に有志の面々が遊びに来て、例の芳名録に自署を需めたり、吹奏などをして夜の更くるも知らなかった。
由来夏季には球磨川の沿岸に河鹿か鳴くのが名物になつてゐるので、人吉の客舎風清く月明かなる夜、欄に憑って耳を澄ますと、閣々の聲斷反斷、旅情轉た切なるものがある。
因みに此地の有志の誰彼數名の内杉田利貞氏とは後年歸京後手紙の往復も続けたのであつた。
由来人吉は山深い地で本州の飛騨の高山にも匹敵すべき所謂出獄四面を鎖すといふ處だけに、山に水に景勝のちである。従って人情馬醇朴である。
我等三人連れの一行は翌朝青井神社に詣で、行先きに暗澹たる運命を擔ふ我等一行の幸を訴願の為め三人連管で献笛した。此地には何んとなくうしろ髪曳かるるやうな未練な氣がしてならなかったが、他の門邊に佇ずんで覺束なくも其の曰其の曰を送る我等のことゝて、入梅の季節も迫つてゐるゆゑ、夫れまでには是非鹿児島に到著したい豫ねての希望であったので、意外に収入のある此地を棄てて即日球磨川下りで出立した。
由来球磨川は日本三大急流の随一と呼ばれる急流であるので、河舟の操縦に困難なることは想像の外であるさうな。
為めに船頭の技術に一家相傳とでも謂ふべく、親より子、子より孫と云ふやうに其の操縦の要點を傳授するさうな。
例へば何處を通過の時には楫を斯くする、比處を通る場合はどの巖に棹を斯く當てて船をかはすとか云ふやうに、非常に周到綿密な操縦法が家傳せらるゝと云ふことである。
乗合舟のことゝて大勢の乗客は四方山の話をする。
我等には初耳のこととて珍らしくもあり面白く感じた。
其の中にはこんな話もあった。過ぐる年此河に大水が出た際、人吉の町に架せる橋が今にも押し流されん形勢になったので大勢の人々が遠巻きに見物レてゐた。
すると一人の若者が何か急用があると見えて群衆を押し分けて他人の留むるも聞かす橋を渡りかけだ。橋の中ほどに往くと凄まじき怒濤は奔騰し来ってあなやと叫ぶ間もあらばこそ、橋諸共押し流されて了った。
見物人もたヾあれよあれよと叫ぶのみで如何とも詮術なく、たヾ手を束ねて見てゐるの外はなかった。
萬に一も助からなものと観念して見過ごして居ったところ、不思議にも三日経って水も稍々退くと、川下五、六里の處で其の橋は岩と岩との間に狭まれて止ったさうな。
さうして其の橋の上に生きた心地もなく橋桁に取ち縋ってゐた若者はとうとう助ったと云ふ奇談があった。
斯様な奇談や風俗談や地理談の盡くるところを知らなかった。
舟が難處難處に掛ると、船頭は例の家傳の秘術を盡して我等に幾度か白刃を渡るやうな思ひをさせた。
難處々々の名稱は忘れたが、其の中に鎗倒岩と云ふ難所があつて、岩のあるところ廣さ五間長さ二十開もあらんかと思しく、急湍巖を噛みて洞窟を成して居り、河水の大部分は雷の如く其の内に呑み込まれてゐる。
矢を射る如く叉疾風の如く過ぐる舟は、此洞窟に向つて走り、あわや舟は水諸共洞窟に呑み込まれんとする刹那、船頭は船首の棹で巧みに船體をかはして僅かに底知れぬ洞窟に呑み込まれるのを避けるので、眞に危機一髪とは是等の事を謂ふのであらう。
往昔相良侯江戸參勤のとき此河を下らるゝ際常に鎗を倒して北岩下を下りたといふ。
鎗倒岩の名これより起るといふことである。
河は二、三町にも旦る廣いところがあるかと思へば、急に二間位に狭ばまつて奔湍は岩に激し舟は眞に弾丸の如き速度で奔下する。馴れぬ我等には凝視するに忍びない危き場所もあった。斯揉なところを彼これ七、八里下つて、舟は白石に上陸した。


この項終わり
(客が歸ってから三人の三谷に充満してゐる米や銅貨を恰も浦島が玉手箱でも開くかのやうに、希望と興味を以て開けて見た。)
山谷については別途尺八掌記で解説します。

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