高野茂老の厚意

翌日から入梅で、陰雨蕭々と降り出して、勤財にも出られない。醇朴な土地だけに、別段宿料の催促も受けぬが、他に支拂ふべきあてもないので、三人為すこともかく、快々として二階の一間に閉ぢ籠ってゐた。
 豫ねて虚無僧旅行中は、たとへ知人があらうとも先方に迷惑を懸けることを慮って、決して訪問はすじと堅く心に誓って居ったが、他に策の施しやうもないので、一方ならず胸を痛めた。不圖思ひ出したのは、以前東京の學習院女子部の筝曲の教師をして居った、高野茂老が此地に隠退して居ることである。
背に腹は換へられぬところからつい訪問する氣になった。雨の小歇みを見て三人連れだって老を訪問した。
老は喜んで迎へられてなぜ早く訪ねて来なかったかと怨ぜられた位であった。そこで旅行の趣意などをお話したところ「夫れは面白い企てだ。
此地は雨の多いところで降り出すと十日や二十日で急に霽れることぢやない。旅宿に居っては何かと不便であらう、且つ持久の策でない。
一先づ自分のもとに来てゐて徐ろに持久策を講ずるが宜からう」と云ふ頼母しい話であった。當初の決心を翻へすことは甚だ遺憾に思うたが、前に述べたような次第で不本意なから遂ひに老の家に厄介になることにした。
 一日老は「自分の家に滞留されることは家人同様に思うて別に厭ふところぢやないが、兄等も心を痛めるであらう。
幸ひに城山の麓に、海志原某の所有にかゝる立ち腐れ同様の家があるから、其の家を借りて自炊生活をされたら日に五十銭もあれば三人優に過すことが出来ようがどうか」と云ふことであった。
夫れは願うてもなき幸ひと、早速火鉢や鍋などを皆り受けて、雨の小歇みを見て其處に移った。其の家は士族屋敷の頃、時めいた人の住んだ邸宅と覺ぼしく、庭なども荒廢に属してはゐるが、何千坪あるか分らぬ位廣い屋敷で、其の中に些やかな別荘風の家が建てられてある。
幾年か立ち腐れになってゐた為め、犬猫などが棲み荒した形跡もあった。其處をどうにかかうにか掃除をして自炊をするまでに用意が出来た。野菜や豆腐などは三人交代で買ひに出掛けることにして、毎日稽古をしたり、尺八の修繕をしたりして、只管雨の霽れるのを侯った。
 其の内熊本から中山(徳蔵)が後を坦ひかけて来て、一行は四人になった。賑やかにたったところから、時には庭に圓を描いて土俵に擬し相撲をとったりして打ち興じ、旅宿住ひの苦労などは水に流したかのやうに忘れて了って、面白可笑しく過ごしたのであった。
 高野老の愛児に駒雄といふ十六歳位の青年があった。此駒雄君の案内で磯の濱に遊んだ。此處には島津公の別館巖園があって、幽邃静寂内に竹樹泉石の美を聚め、外に江山林谷の秀を鍾めたる仙境である。
或時は又南洲翁が最後まで立て籠つたといふ岩崎谷の洞窟に赴いた。此處は翁の軍が、剣既に折れ、弾漸く盡きて終ひに意を決するところあり、挺然身を起して此の洞窟を出たが、偶々飛弾あり、千古の英雄忽焉として逝いたところである。
北洞窟だの終焉の地だのを、今面のあたり見るに及んで無量の感に打たれた。叉折に觸れては高野老の知人の家などに赴き、夫れ等の縁故で多少交友なども殖え、又老の世話で諸家にも招かれて、一園二園の報酬を受くることも出来たので米塩の料は勿論菓子果物などにも事缺けぬほどになった。
 或日、加藤醫學士(好照氏)方の園遊會に招かれて、取って置きの衣服と著更へて四人が赴いた。同家は市中一流の開業醫で、當日は知事以下官民一流の人々を招いた団遊資であった。
園内は幾つかのテーブルが按排せられ、模擬店があり、準備萬端到らぬ隈もない。やがて定刻になると、五、六十名の来賓が到著して、席定まるや、我等一行は座敷に居並び庭に向って先づ一曲を奏した。すると来賓中より二人の紳士が慌しく縁先に近づいて「川瀬君、しばらく……」と呼びかけた。
自分は思ひ設けぬことで事の意外に驚き、紳士の面を熟視したがどうしても思ひ出せないので、暫し無言でゐた。
漸くにして醫學士秋元隆次郎氏なることが分りて、變つたところの邂逅に奇遇を感じた。同氏とは氏の學生時代に東京の尺八先輩佐藤正義氏方で度々會って別懇の間柄でおつたのだが、風采が變ってゐるので思ひ出せなかっだ。
 そこで久潤を叙し次いで旅行の概略を手短かに話した。氏の話に依ると、氏は熊本の縣立病院に永らく奉職してゐたが、数日前、鹿児島の病院に醫科長として赴任されたとのことであった。氏は重ねて「此家の主人公とは相識の間柄ゆゑ、此園遊會は言はヾ僕の歓迎を兼ねて當市官民一流の紳士に自分を紹介すべく催された。
即ち僕が今日の正客なのだ。ところで加藤君の招待状の末に、『君は尺八を吹くので別に馳走はないが、東京から立派な尺八吹奏者を招んで餘興に尺八をお聴かせをする』といふことが書いてあつたが、東京の立派な尺八吹奏者がこのかけ難れた鹿兄島に来る筈はない。必らす嘘に違いない。
察するところ何か胡匿化しを言うて此土地に似非虚無僧が入り込んだものと想像する。よし、さらば僕が一つ化けの皮を引き剥いてやらうといふ意気込みで此席に臨んだ譯さ。ところが豈圖らんや其の尺八を吹く人といふのは君だらうぢやないか。
僕は思はす一驚記喫したよ。だから君の吹き終はるのを待ち兼ねて聲をかけた譯さ」と頗る感慨に打たれた様子であつた。
 其の日は園遊會の客に對して一行交るがわる素吹きでニ、三曲を奏して枚日記濟した。
吹き終はると秋本氏は自分を来客一同に紹介して呉れたので測らずも歓迎を受け、恰も客の如き有様と變じて大いに面目を施したのであった。翌日秋元氏をお訪ねしたが、一別以来の話は盡くるところを知らなかっだ。
そこで氏は「君は此先どういふ方針を執るか」といふ問ひであった。自分は「此處まで来たことだから尚進んで琉球(沖縄)に遊んで見たい希望である」と答へたところが「夫れは至極面白からう」と同意された。氏は更に「何れ歸途にはまた此處に立寄るであらりから、其の節加藤醫學士始め病院の同僚などにも話をして君の為めに盛んな音楽會を催したい積りだから、彼地に滞在中も折角自愛し給へ」といふいと頼母しい言葉であつた。
氏の夫人もともどもに見る影もない自分に同情され七、衷心から厚遇して下さったのは感謝に堪へなかった。
 秋元氏との邂逅は測らずも自分自身の裏書を成して大いに便宜を得た。又高野老の好意で、七月十三日に大門口の南陽館で小音楽會を催した。當時の演奏曲目左の如くである。
 将啓時下追々暑気に相向ひ候處益々御健勝大慶に存候て今般載東都の洞嘯家(尺八)を以て名ある川順順輔氏並に白瀬吉之助氏外一名國風音楽に對する諸種の目的を以て九州沖縄臺灣其他各地遊歴の途次舊交を温めんが為め予を訪問せらる就ては同氏の送別を兼ね来る七月十三日(土曜日)午後一時より大門口南陽館に於て琴三絃等をも加へ合奏會を催し江湖の諸彦に御紹介致し度當日は晴雨に係はらす萬障御繰合せ御參會被下度右御案内申上候 敬具
         
但食費としてー人金貳拾銭當日御持參被下度候
曲  目
一、千  鳥琴尺八四 名
一、末の契吹き分け尺八二 名
一、松  風三 名
一、鹿の遠音雌鹿雄鹿吹け本曲尺三 名
一、菊  水二 名
一、二上り獅子本曲尺八三 名
一、里のあかつき三絃尺八二 名
一、吾妻梅子箏三絃尺八二 名
一、臨時もの雛曲尺八一 名
一、夕  額箏三絃尺八二 名
一、松竹梅總合奏

休憩茶菓進呈

各  位       會 主  高  野
音楽會の箏三絃演奏者は執れも高野老の門下であつた。
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竹友回顧録、是を以て連載完了致しました。   柿崎鐘輔 

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